お笑いタレント・司会者・俳優・演出家として活躍を続けている明石家さんまさん。
最初は落語家を志して「笑福亭さんま」としてデビューしましたが、師匠の推薦でタレントに転向し、国民的お笑いスターの1人となりました。
今回は明石家さんまさんの若い頃を振り返り、現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!
【画像】明石家さんまは若い頃イケメン!
幼少期・10代(1955年~1975年)
引用元:Xいよいよ週末12日(日)よる7時〜#誰も知らない明石家さんま
— 誰も知らない明石家さんま12月1日(日)放送【公式】 (@shiranai_sanma) December 10, 2021
さんまと祖父の物語をドラマ化📺#おじいの笑顔
祖父・音一さん役 #古田新太
さんま役 #勝地涼 幼少期 #川原瑛都
さんまのお笑いDNAはおじいから。
生き方を教えてくれたおじいとのエピソード✨#新庄剛志 #安田顕 #小池栄子 #藤田ニコル pic.twitter.com/Zirfy9GnxD
明石家さんまさんは、和歌山県東牟婁郡串本町(ひがしむろぐん くしもとちょう)で、水産加工業を営む家系の次男として生まれました。3歳の時にお母さんが病死して同年に奈良県奈良市に転居し、ご実家は1階が工場で2階が自宅でした。
小学校高学年になるとお父さんが再婚し、新しいお母さんとなった女性には連れ子がいました。さんまさんは「弟が出来た」と喜びますが、いわゆる「生さぬ仲」の親子の間には溝があり、お母さんは連れ子ばかり可愛がっていたようです。
お母さんに心を開いてほしくて毎日必死で面白いことを考えていた体験がお笑いの道へ進むきっかけになったのだとか。隣の部屋でお母さんがお酒を飲みながら「私の子供はこの子(弟)だけ」と言っているのを聞いてしまった後はお兄さんと泣いて、大人になってからもお酒自体とお酒を飲む女性が苦手になるくらい深い心の傷を負いました。
上の画像は小学校時代の明石家さんまさんです。白黒写真なところに時代を感じますが、笑顔が今と変わらない感じがしますね。
引用元:Xさんまさんの高校時代の運動会
— エムカク (@m_kac) September 24, 2022
の写真。ふざけすぎて、乾井先生に怒られてしまう。#漁港の肉子ちゃん pic.twitter.com/3xG6HiDEPv
小学校卒業後は奈良市立三笠中学校に進学し、同級生2人と「アーアーズ」といういたずらグループを結成して遊んだり、植木等さんの物まねをしたりしていたそうです。
ちなみに中学受験では、不合格にはなったものの、先生の勧めで私立東大寺学園中学校も受験されたのだとか。西日本トップレベルの名門校を勧められるなんて、相当成績が良かったことが想像できますね。
中学校卒業後は奈良商業高校に進学し、サッカー部に所属します。決して真面目な生徒ではなく、別のクラスの授業をいたずらで妨害するなどで人気者になりました。
ですが、不真面目な生徒となるとやはり先生からは目の敵にされ、徒競走で逆走した時には怒った先生から追いかけ回されたそうです。上の画像はまさにその先生に捕まった瞬間のさんまさんです。長髪なのは、元サッカー選手のジョージ・ベストさんの真似なのだとか!
さんまさんは、クラスメイトの前で落語や漫談を披露することが多く、ある英語の先生は授業を中断してそれを黙認することもあったのだとか。才能に驚いた先生から「吉本に入れ」と言われて、芸能界に興味を持つようになっていきます。
引用元:ミドルエッジ
明石家さんまさんは、高校3年生の2月に笑福亭松之助さんに弟子入りしました。花月劇場で見た笑福亭松之助さんの新作落語が面白かったからと言うのが入門の動機でした。高校卒業後の3月に内弟子修行が始まります。入門生活は丸刈りにされること以外は緩く、放任主義だったそうです。
「笑福亭さんま」という高座名が与えられますが、入門から半年も経たないうちに当時交際していた女性と東京に駆け落ちしました。ですが東京での生活はうまくいかず、交際相手の女性が別の男性と結婚したことで内弟子修行に戻ることを決意します。
師匠の笑福亭松之助さんの楽屋を訪ねると「何も言うな、ついてこい!」とラーメン屋に連れ出してくれたそうです。「よく戻って来られたな」と言われてもおかしくない場面なのに、優しいですよね。
さらにさんまさんが東京にいた間も、「さんまが戻って来るからよろしく」と上方落語界や吉本興業への根回しをしてくれていたのだとか。そんな底抜けに優しい師匠は「笑福亭のままでは反発がある」と言い、師匠の計らいで「明石家さんま」として再出発しました。
上の画像は高校時代の明石家さんまさんです。眉がキリッとしてかっこいいですね!

「明石家さんま」という芸名はこの頃から名乗っていたんだね。
よく考えると、なんで「さんま」になったのかが気になる……。

奈良のご実家が水産加工業を営んでいたことから名付けられたみたい。
今ではすっかり馴染んでるけど、そうなるまでは名前を聞いて不思議に思う人も多かったかもね。
20代(1975年~1985年)
引用元:Xさんまさんのテレビデビュー番組『11PM』の超貴重写真キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!小枝さんあざーず!! pic.twitter.com/cBmZj5yW
— エムカク (@m_kac) November 24, 2012
明石家さんまさんは、1976年(当時20歳)1月放送の「11PM(大阪イレブン)」にて生放送されたトーク企画「20歳の性熟度ピンクテスト」に出演しました。
20歳を迎える上方落語家さん達をスタジオに集めてトークする内容のため、出演者の多くが着物姿で、師匠の提案で赤いブレザーを着ていてよく喋るさんまさんは目立っていたそうです。
これがさんまさんのテレビデビューで、上の画像はその時のものです。白黒写真であっても着物姿の人々の中で一人ブレザーを着たさんまさんは目立っていますが、そのブレザーが赤かったとなると視聴者の記憶にさらに強く残ったのではないかと思われます。
入門から2年が経って通い弟子を卒業しますが、テレビの出演オファーは全く無く、不定期の花月劇場の出番と落語会の出番の他は同期の島田紳助さんとイベントの司会などをしていたくらいで、先輩芸人さんと遊んでいることが多かったそうです。
「スタジオ2時」の企画の「若手漫才選手権」に兄弟子の明石家小禄さんと漫才コンビとしての出場を打診され、他に仕事も無かったため師匠の助言もあって出場を決めました。
巨人の1番柴田さんから8番河埜さんまでの選手の形態模写を順番に披露し、最後に巨人のエース小林繁さんの投球フォームを披露するネタがウケて、徐々に人気が高まっていきます。
引用元:web Chronos
明石家さんまさんは当時、組んでいた漫才コンビでの正式なデビューを吉本興業から打診されますが、ピンで売れたいさんまさんが拒否してコンビ解消となりました。
同期の島田紳助さんからも「コンビを組まないか」というお話が来ますが断って、代わりに松本竜介さんを紹介したことで「紳助・竜介」の結成に大きな役割を果たしています。
1978年頃(当時23歳)に巨人の小林繁さんが阪神に移籍すると、前述の小林さんの形態模写が再び脚光を浴びて、さんまさんは関西を中心にアイドル的な人気となりました。
その後は、フジテレビ正月特番「はつもうで、三枝の爆笑ヒットパレード」に出演し、その番組のスタッフだった横澤彪さんや三宅恵介さんとの出会いから、そのお2人が担当するフジテレビの多くの番組に重用されていきました。
上の画像は1978年頃(当時23歳)の明石家さんまさんです。素敵な時計をしているのもあり、モデルさんみたいですね!
引用元:NEWSポストセブン
1979年(当時24歳)には「明石家さんまのオールナイトニッポン」などのレギュラーを持って徐々に東京に進出し始め、1980年代に入るとピン芸人にも関わらず漫才ブームに乗っかって「THE MANZAI」などに出演していました。
漫才ブームは徐々に失速しますが、「紳助・竜介」のお2人とさんまさんが先頭に立って、東京での仕事を増やして「笑ってる場合ですよ」や「オレたちひょうきん族」に主要レギュラーとして出演し、さらに「さんまのサタデーナイトショー」で冠番組を獲得しています。
上の画像は、「オレたちひょうきん族」時代の明石家さんまさんです。笑顔が素敵ですね!
1983年(当時28歳)には「のんき君」でドラマ初主演を果たし、当時は下に見られていた東京での大阪芸人としての地位を築くとともに、大阪中心から東京中心に活躍の場を移しました。
翌年からは「笑っていいとも!」で金曜日レギュラーとして出演し、10年以上続く人気コーナーとなりました。

20代の頃に吉本興業を辞めようと決心していたみたいだけど、どうして辞めたかったんだろう?

仕事量とお給料が釣り合わなかったからみたいだね。でも東京支社長の木村政雄さんから「吉本の看板でいてほしい」と言われて思いとどまったんだって。
30代(1985年~1995年)
引用元:TBSチャンネル
明石家さんまさんは、1986年(当時31歳)のテレビドラマ「男女7人夏物語」と翌年の続編「男女7人秋物語」の主役を演じ、いずれも最高視聴率が30%を超えて、名実ともに国民的スターとなりました。
のちに奥さんとなる大竹しのぶさんと親しくなったのはこのドラマがきっかけです。
上の画像は「男女7人夏物語」のものです。さんまさんと大竹さんの掛け合いの面白さで話題になり、トレンディドラマの元祖とも言われている作品です。
1987年(当時32歳)7月に生放送された「第1回FNS27時間テレビ・FNSスーパースペシャル 1億人のテレビ夢列島」の総合司会をタモリさんと共に担当し、深夜のコーナーではビートたけしさんが登場しました。
これがきっかけでタモリさん・さんまさん・ビートたけしさんの3人でお正月のゴルフ番組の企画が生まれ、その番組のタイトルが「BIG3」だったので、この3人がそう呼ばれるようになりました。
引用元:文春オンライン
明石家さんまさんは1988年(当時33歳)、「男女7人夏物語」以降交際が続いていた女優の大竹しのぶさんと結婚され、翌年に娘さんのIMALUさんが誕生します。
翌年に「ひょうきん族」が放送終了すると同時に、育児に専念するため仕事を控えるようになり、ゴールデン帯のレギュラー番組が一時期なくなっていました。
1991年(当時36歳)には「リリが見たやさしい虹」のOVA原案や声優としての出演をされ、絵本も出版されるなど家庭的なイメージを見せていましたが、それにより一時的に人気に陰りが見えました。
ですがこの頃、NHKの「好きなタレント調査」で5年連続1位だったのが15位に急落し、日本テレビの「好きなタレント・歌手」の調査でも85年からの5年連続1位から2位に落ちてしまいます。
1992年(当時37歳)に離婚して仕事の量を元通りにすると1位に戻りますが、バブル崩壊もありしばらくは8億5千万円の豪邸がなかなか売却できず、「同情するなら家買って」などの自虐ネタなどもギャグにしていました。

「リリが見たやさしい虹」ってどういう話なんだろう?

うさぎのリリが、どこかにある「やさしい森」にかかる大きな虹を見つけて旅に出るというお話だよ!OVAではさんまさん本人が、リリと旅をするきつねのジョー役を演じたんだって。
40代以上(1995年~)
引用元:スカパー!
「男女7人秋物語」以降は主演としてのドラマ出演を控えていましたが、離婚後は「恋も2度目なら」「その気になるまで」「恋のバカンス」「世界で一番パパが好き」「甘い生活。」など、年に1回のペースで主演を務めました。
田村正和さん主演の「古畑任三郎」シーズン2の初回スペシャルにゲスト出演して、やり手の弁護士を演じ、平均視聴率10%台半ばだったのを25%まで上げたことで、古畑任三郎を人気シリーズへと高める役割を果たしました。
「BIG3」では、ビートたけしさんとタモリさんにいじられる役割が多かったのですが、90年代後半あたりから一回り以上離れている後輩芸人が次々に頭角を現します。BIG3の1人として大御所の立場に変化しはじめると、お笑いに対してよりストイックになっていきました。
あまりのダメ出しの多さに「めちゃイケ」にゲスト出演した際に「お笑い怪獣」と言われ、それがさんまさんを表す代名詞として定着しました。
そして2009年(当時54歳)に娘さんのIMALUさんが芸能界デビューします。さんまさんは猛反対していましたが、デビューするにあたって発表前日に元奥さんの大竹さんから聞かされて、「とにかく人の倍は努力せなあかん」とアドバイスしたそうです。
引用元:読売新聞オンライン
明石家さんまさんは2015年7月に還暦を迎え、還暦記念してフジテレビで「さんまでっか!?TV」、毎日放送で「痛快!明石家電視台 明石家さんま生誕年SP」などが放送されました。番組はさんまさんのゆかりの芸人さん達が出演し思い出話に花を咲かせました。
さんまさんは還暦を迎えるにあたって一時期引退も考えていましたが、吉本幹部はじめ芸人仲間さん達から反対されたようです。特に爆笑問題の太田光さんに「ぼろぼろになるまでやって欲しい。今辞めたらかっこよ過ぎる」などと言われ、最終的には撤回しました。
還暦を過ぎてからはプロデューサー業にも携わるようになり、2018年(当時63歳)にはジミー大西さんの半生をドラマ化した「Jimmy〜アホみたいなホンマの話〜」をNETFLIXでプロデュースしています。
2024年10月(当時69歳)には錦鯉・渡辺隆さんがプロデュースする新人バーチャルYouTuber「八都宿ねね(はつどまり ねね)」としてVTuberデビューしました。
最初は正体を伏せていましたが、同年11月に正体を明かされ、コラボした有名VTuberさん達はあまりの驚きで絶叫されていたそうです。ボイスチェンジャーを使って女性のキャラクターを演じていたことやトークの軽快さから「女性芸人ではないか」と予想する方もいました。
さんまさんは50代後半の頃還暦を迎えるのを嫌がっていたようですが、還暦を過ぎて古希を目前にしても、こうして新しいことに挑戦して活躍を続けているので、あまり年齢を感じさせませんね。

ボイスチェンジャーを使われたら誰だか分からないだろうけど、本当に誰も気付かなかったのかな?

「八都宿ねね(はつどまり ねね)」をアルファベットで書いて文字を並べ替えると「え、実は俺さんま」になるという、衝撃的な考察をする人はいたみたいだよ!
【画像】明石家さんまは声が出なくて引退?飛行機に乗らない理由は?
明石家さんまは声が出なくて引退?
引用元:Yahoo!ニュース
引用元:Smart FLASH
2024年にクリスマスイブの恒例番組「明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー2024」が放送されました。明石家さんまさんが例年通り視聴者からの電話に応えるという内容でしたが、その中でのさんまさんの発言がファンをざわつかせています。
さんまさんは番組内で「夏場、声が寿命で」と喉の不調に悩まされていたことを明かし、さらに「検査で『声年齢は180歳』と言われ、しゃべれないから引退を決断して吉本興業の社長と会った」と告白しました。
7月放送の「FNS27時間テレビ」の頃から喉の不調を抱えていて、12月放送の「誰も知らない明石家さんま」も不調のまま出演します。「踊る!さんま御殿!!」では、ほとんど声が出ない状態で、トーク内容を字幕表示するほど悪化していました。
「NEWSポストセブン」の取材を受け、「声が出なくなったらどうするのか」の問いに「んなもん、(芸人)辞めな、しゃーないやろ」と答えました。
「明石家サンタ」では、吉本興業の社長と会って「声が出ないから今年いっぱいだ」と伝えて「今出てますよ」と言われたエピソードで笑わせ、その日から声が出たため引退はしないことになったようです。
Xユーザーからは、さんまさんの引退について「やっぱりこの人は普通じゃない。すごいと思う」「まだまだやめないでください」と応援が送られています。

さんまさんの声って特徴的だから、声にまつわる面白いエピソードが色々ありそう……。

さんまさんのご自宅は声だけで全部操作できるようになってるけど、「窓を開けて」と言ったのにテレビがついたことがあって「機械殺し」って言われているんだって!
明石家さんまが飛行機に乗らない理由は?
引用元:Wikipedia
引用元:ENCOUNT
明石家さんまさんは1980年代半ば(当時30代)頃は多忙を極め、大阪と東京を週に何往復もする生活をしていました。
月曜日には「MBSヤングタウン」出演のため、伊丹行きの日本航空123便にも搭乗していましたが、1985年7月より「さんまの駐在さん」の収録が火曜日から月曜日になったことから移動日が日曜日となり、1985年8月12日(月曜日)の伊丹行き日本航空123便による墜落事故を免れました。
同日放送の「ヤングタウン」では、「いつも使ってる便やから……」とショックを隠せず、この経験を機にさんまさんは東京・大阪間の移動など新幹線で行ける場所へは飛行機ではなく新幹線を利用するようになりました。
また、この経験から生まれたさんまさんの座右の銘が「生きてるだけで丸儲け」で、これが娘さんのIMALUさんの名前の由来になっています。

この墜落事故ってどれくらいの規模だったの?

520名の死者を出し、日本の民間航空史上最悪の事故であると共に、単独機としては死者数において史上最悪の航空事故となっているよ。
明石家さんまのプロフィール・受賞歴
引用元:dmenuニュース
プロフィール
- 名前:明石家 さんま(あかしや さんま)
- 本名:杉本 高文(すぎもと たかふみ)
- 生年月日:1955年7月1日
- 年齢:69歳(2025年3月現在)
- 出身地:奈良県奈良市
- 血液型:B型
- 身長:172cm
- 趣味:スポーツ観戦・ゴルフ・競馬・読書・麻雀
- 特技:手品・サッカー・水泳
- 所属事務所:吉本興業
受賞歴
- 1982年 第2回花王名人大賞 新人賞
- 1982年 第10回日本放送演芸大賞 ホープ賞
- 1983年 第11回日本放送演芸大賞 奨励賞
- 1985年 第13回日本放送演芸大賞 優秀賞
- 1985年 第5回花王名人大賞 大衆賞
- 1985年 第23回ゴールデンアロー賞 芸能賞
- 1986年 第14回日本放送演芸大賞 特別賞
- 1987年 第15回日本放送演芸大賞 大賞

さんまさんがサッカーを始めたきっかけって何だったのかな?

小学校6年生の時に、西ドイツのデットマール・クラマーさんが日本代表の指導のために来日したのがきっかけみたいだよ!