その類稀なる美貌で、フランス映画界のみならず日本でも大ブレイクし、そして俳優だけではなく、プロデューサー、脚本家としても活躍を続けていたアラン・ドロンさん。
壮絶な幼少期、映画のようなデビュー秘話、複雑な家族関係、遺言問題などで世間を賑わせました。
今回はアランドロンさんの若い頃を振り返り、現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!
【画像】アラン・ドロンは若い頃イケメン!
幼少期・10代・20代(1935年~1965年)
引用元:SCREENONLINE
アラン・ドロンさんは、フランス、パリの郊外、セーヌ県ソーで生まれ、父は映画館を経営、母は薬剤師という家庭で育ちました。4歳の時に両親が離婚し、母親に引き取られましたが、母親が再婚した義父と反りが合わず、後に生まれた娘ばかり溺愛し、アランさんはのけ者のように扱われたそうです。
上の画像は年代は不明ですが、アランさんの幼少期の写真です。恐らく小学生低学年かその辺りかと思いますが、すでに大人びた顔立ちが印象的です。やはり幼少期からすでに完成された顔立ちだったようです。
そういった複雑な家庭環境のせいか、学校では度々女子生徒と問題を起こして、聖ニコラ修道学校の寄宿学校に入れられてしまいます。
そこでもアランさんは友達と学校を抜け出したり、警察沙汰を起こしたりと問題が多く、結局学校も中退しました。その後14歳で父親の食品会社に入社し働いた後、17歳の時にフランス海軍に志願し、入隊します。
1955年、アランさん20歳の時に無事除隊し、翌年に帰国した後はパリのモンマルトルなどを転々とし、サン・ジェルマン・デ・プレに落ち着きました。
引用元:filmarks
そしてアラン・ドロンさんは、1957年22歳の時に、女優のブリジットオベールさんから、「カンヌで映画祭が開催されるから歩いてみたら?あなたほどの美貌なら、監督の誰かから声が掛かるかもしれない」と声をかけられます。
そして帰国後、パリで知り合ったジャン・クロード・ブリアリさんと2人でカンヌを歩いていた所、ハリウッドの有名エージェント、ヘンリー・ウィルスンさんに「君はいい体をしている」とスカウトされたのだそうです。
その3日後、ローマで撮影中だった映画「武器よさらば」のスクリーンテストに合格し、アメリカでの成功に太鼓判を押され、7年の契約を持ちかけられたのです。
しかしアランさんは「私はフランス人なので、まずはフランスで勝負をしたい」と保留にします。
そして翌年1958年には、女優のエステラ・ブランさんの紹介で、イヴ・アレグレ監督の「女が事件にからむ時」で、見事デビューを果たしたのです。
上の画像はDVDジャケット画像です。この作品でアランさんは主演ではなかったのですが、主演キャスト達に混じっても違和感のない、アランさんの存在感が際立つデビュー作となったようです。
引用元:screenonline
上の画像は1958年アラン・ドロンさん23歳の時、映画「恋ひとすじに」に出演した時に共演した、フランスの人気女優、ロミーシュナイダーさんとの2ショットです。
ロミー・シュナイダーさんは、オーストリアのウィーンで俳優一族の元に生まれました。そして母が主演した映画でデビューし、オーストリアの映画で一躍アイドルとなり、その後フランスに進出しました。
共演した当時、アランさんはドイツ語が理解できず、ロミーさんもフランス語が話せなかったのですが、2人に言葉の壁は関係なく、すぐに恋に落ちました。
そして、アランさん22歳、ロミーさん19歳の時に婚約しましたが、順調に思われた2人の関係は、5年後の1963年に終わりを迎えたのです。
しかし、アランさんはロミーさんと別れた後も陰ながら彼女を見守り、ロミーさんが亡くなった際は葬儀を取り仕切るなど、最後までロミーさんの事を大切に思い、支え続けたそうです。
引用元:映画.com
上の画像は1960年アラン・ドロンさんが25歳の時に主演を務めた映画「太陽がいっぱい」の時の画像です。
この作品はフランスのみならず世界的に大ヒットし、アランさんは一躍映画スターの仲間入りを果たしました。そして日本で公開された際には、その端正なルックスと抜群の演技力で日本の女性達を魅了しました。
引用元:Instagram
上の画像は1964年アラン・ドロンさんが29歳頃、日本のテレビ番組「夢で会いましょう」で黒柳徹子さんと共演した際の画像です。2人とも綺麗で見入ってしまいますね。
この番組を始める際、脚本の永六輔さんが面白がって、アランさんが黒柳さんに対して「愛している」とささやくシーンを書いたそうです。
黒柳は「考えてみればアランドロンさんには無理な話だった」というが、それでもアランさんが青筋を立てながらも演じきったそうです。そして収録後、黒柳さんとアランさんは関係者共々クラブへ出かけたというエピソードも披露しています。

アランさんとロミーさんの交際は、ロミーさんの両親から反対されていたそうだね。

そうだね。ロミーの家は名門俳優一家だから、どこの出かも分からない無名の若者に娘が利用されるのを、家族で必死に阻止したみたいだよ。
だけど、生涯にわたってロミーさんを支え続けてくれたアランさんには、感謝するべきだよね。
30代(1965年~1975年)
引用元:instagram
上の画像は1970年代初め、アラン・ドロンさん30代半ば頃かと思いますが、親交があったデヴィ夫人とパリの老舗レストランで会食をした際の写真です。
2枚目はアランさんがジョークを言って、それにデヴィ夫人が笑って答えているの時の写真だそうです。
2人は1964年頃にパーティで知り合い、その後ちょっとしたお付き合いがあったそうで、デヴィ夫人は当時の事について「黒髪に青い目。あれほどの美男子はほかにいません。彼には同棲相手がいましたので、私たちはうたかたの恋でした」と語っていました。
引用元:SCREENONLINE
上の画像は1971年アラン・ドロンさん35歳の時、世界のミフネこと三船敏郎さん、チャールズ・ブロンソンさんと共演した映画「レッド・サン」での1コマです。世界の3大スターが共演した西部劇として、注目が集まった作品です。
撮影が終わった後も、アランさんと三船さんとの交友は続いたそうで、アランさんが来日した際には、映画スタッフが三船さんの自宅の庭にお寿司の屋台を呼び、本物の板前がおもてなしした事もあるそうです。

アラン・ドロンさんは、フランス人では珍しく大の親日家として知られているんだよね。

そうなの。1963年に東京で開催されたフランス映画祭で初来日してから、仕事ではもちろん、プライベートでも毎年のように来日して、観光などを楽しんでいたそうだよ。
40代以上(1975年~)
引用元:YouTube
上の画像は、1983年アランさん48歳頃、日本の番組「モーニングジャンボ奥様8時半です」でのインタビュー映像です。
インタビューしていたアナウンサーは、緊張しすぎて何を話すのか忘れてしまったのだそうです。確かにこんなハンサムな男性が隣にいたら、緊張して普通の状態ではいられなくなってしまうでしょうね。
引用元:Facebook
上の画像は1989年、アランさん54歳頃、日本テレビのニュース番組に出演した際の動画です。インタビューしているのは、若かりし頃の徳光和夫さんかと思われます。質問に対して、しっかり、真摯に受け答えしている姿が印象的です。

アランさんは、徳光和夫さんの番組で特集を組まれたり、プライベートでも親交があったみたいだね。

親日家であるアランさんは、共演した日本の人達にもフレンドリーに接してくれていたみたいだね。徳光さんは自身の公式SNSで、アランさんからプレゼントしてもらったという腕時計を披露していたよ。
フランス出身の有名人は?
引用元:映画.com、SPUR、VOGUEJAPAN
アランドロンさん以外にも、フランス出身の有名人はたくさんいますが、日本で有名な俳優さんというと、映画「レオン」で一躍有名になったジャン・レノさんをはじめ、ジョニー・デップの元妻で歌手のヴァネッサ・パラディさん、その娘で、女優のリリー・ローズ・デップさんなどがいます。他にもスポーツ選手や多方面で活躍しているフランス人がたくさんいます。
【画像】アラン・ドロンの事実婚相手ヒロミと子供の関係は?遺言に批判殺到!
アラン・ドロンの事実婚相手ヒロミと子供の関係は?
引用元:デイリー新潮
引用元:Instagram、Instagram
上の画像1枚目は、アランさんと事実婚相手とされるヒロミさんの画像です。
2人の出会いは1989年、アランがプロデューサー兼主演として参加した映画「ダンシングマシーン」の撮影で、当時助監督をしていたのがヒロミさんでした。
当時2人にはお互いに相手がいる不倫関係でした。それでも関係は続き、その間にアランさんには子供が2人生まれ、前妻との子供も合わせると、アランさんには3人のお子さんがいました。
画像2枚目は、以前アランさんのパートナーだった女優のナタリー・ドロンさんとの間に生まれたアントニー・ドロンさんとオランダ人モデル、ロザリー・ファン・ブレーメンさんとの間に生まれた、息子のアラン・ファビアン・ドロンさんと、孫娘・リヴさんとルーさんの画像です。
画像3枚目はロザリー・ファン・ブレーメンさんとの間に生まれた娘、アヌーシュカ・ドロンさんです
ヒロミさんも当時の夫とは離婚しました。その後も事実婚の関係は約17年に渡って続いたのです。
しかし、アランさんの子供達はヒロミさんの存在をよく思っておらず、「アランが衰弱したことに付け入ったり、彼を閉じ込めたり、ペットを虐待した」として2023年7月、「弱者に対する意図的な暴力」、「モラル・ハラスメント」、「弱さにつけこんだ行為」、「弱者の隔離」、そしてアランの犬に対する動物虐待を理由にヒロミさんを告発したのです。
ヒロミさんはこれを全面的に否定し、司法当局もヒロミさんの「すべて事実に反する」との主張を全面的に認めて、不起訴処分とし、一方でヒロミさんの告訴も不起訴とされ、この騒動は幕を閉じました。
しかし、結局アランさんが亡くなった時も、葬儀に招かれる事も参加する事も許されず、アランさんの最期に立ち会う事ができなかったのだそうです。
この騒動については、一方的にヒロミさんに矛先が向いていますが、影ではアランさんの莫大な遺産が原因ではないかと言われています。事実婚であっても、アランさんが望めばヒロミさんに遺産が入ります。アランさんの子供達はそれをよく思わず、アランさんからヒロミさんを強制的に引き離したのではないかと噂されているようです。
アランさんは、遺産の半分をアヌーシュカに譲り、残り半分を息子2人が折半するように遺言に残しています。しかし、その後も兄弟間での争いが続いており、そこには、お金だけでは解決できない、アランさんの血を分けた子供にしか分からない内情があるのかもしれませんね。

アランさんは、自分の子供たちに対してかなり厳しかったみたいだね。

そう。上の2人の息子たちに対しては、暴言や暴力を日常的にしていたという本人達の証言もあるね。でも娘のアヌーシュカだけは小さい頃から可愛がっていて、アランさんも「娘を愛しすぎていて、ひんしゅくを買うことがある」と言うくらい溺愛していたみたい。
アラン・ドロンの遺言に批判殺到!
引用元:NEWSポストセブン
引用元:X最後の願いは聞き入れられなかった。
— 霞 (@kaorunederland) August 20, 2024
故アラン・ドロン氏は、10歳になる健康な愛犬を安楽死させ、一緒に埋葬してくれと遺言していたが、動物愛護活動家は激怒、実子たちも父親の願いを拒否。
顔は笑っていても瞳が常に冷酷だなと思っていたが、やはりね。 pic.twitter.com/D6eg2mAEQH
上の画像1枚目は、アランさんの愛犬、ベルジアンシェパードのルーボ君です。画像2枚目はアランドロンさんとルーボ君の仲睦まじい2ショットです。
アランさんは、2019年に脳卒中を患い、フランスのドゥシーにある自宅で療養生活を送っていました。そしてアランさんが生前に作成していた遺言書を巡って、動物愛護団体を始め、様々な方面から批判が殺到したのです。
その遺言書には、「自分が亡くなったら、愛犬を安楽死させて一緒に埋葬してほしい」という内容が記されていました。
アランさんは2018年、フランスの雑誌の取材を受けた際にも「もし私が先に死んだら、獣医師に、ルーボも一緒に死なせてもらうよう頼むつもりだ。彼が悲しみに暮れながら私の墓の上で死ぬよりましだ」と話していたのだそうです。
しかし、愛犬家や動物保団体からの批判が殺到した為、獣医師と遺族は遺言を執行しない事とし、愛犬と共にアランさんの旅立ちを見守ったそうです。そしてアランさんの愛犬は親族が引き取り、アランさんの自宅で飼い続ける事になったそうです。

フランスでは、動物の安楽死は禁止されていないの?

そうなの。日本と違って、フランスでは飼い主が動物を安楽死させる事は禁止されていなくて、全て獣医師の判断になるんだって。
今回も、獣医師さんがアランさんの親族と相談した結果、ルーボの安楽死はしないという事で同意したみたいだよ。
アラン・ドロンのプロフィール・SNS
引用元:映画com
プロフィール
- 名前:アラン・ドロン(あらん・どろん)
- 生年月日:1935年11月8日
- 年齢:享年88歳(2024年8月18日逝去)
- 出身地:フランス
- 血液型:A型
- 趣味:古美術 切手、レコード収集
- 特技:ビリヤード 運転
受賞歴
- 1964年 ゴールデングローブ賞 有望若手男優賞 ノミネート
- 1972年 ダヴィッド・デ・ドナテッロ賞 特別賞
- 1977年 セザール賞 最優秀男優賞 ノミネート
- 1978年 セザール賞 最優秀男優賞 ノミネート
- 1985年 セザール賞 最優秀男優賞 受賞
- 1995年 ベルリン国際映画祭 名誉金熊賞 受賞
- 2019年 カンヌ国際映画祭 名誉パルムドール

アランさんの絵画コレクションは、貴重なものがたくさんあるみたいだね。

アランさんが60年をかけて集めたコレクションは、合計で400万~500万ユーロ(約5億7000万〜約7億2000万円)の価値があるとされていたみたい。死後に販売するのは嫌だとの事で、生前に何度かオークションに出しているそうなんだけど、2007年に行われたオークションでは、なんと14億円で落札されたそうだよ。