【画像】アントニオ猪木は若い頃イケメン!4人の妻との馴れ初めは?お墓はどこ?

プロレスラー引退後は政治家で活躍を続けてきたアントニオ猪木さん。新日本プロレスのマットで、USヘビー級王座の獲得IWGPに王者に4回輝くなど多大な功績を残してきました。

今回はアントニオ猪木さんの若い頃を振り返り、現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!

目次

【画像】アントニオ猪木は若い頃イケメン!

10代(1953年~1963年)

アントニオ猪木さん
引用元:日刊スポーツ

アントニオ猪木さんは、興行でサンパウロを訪れていた力道山さんから直接スカウトされて日本へ帰国し、日本プロレスに入団しました。

上の画像は1960年(当時17歳)の時のものです。このころからしっかりとした体格が感じられ、若々しく、精悍な印象ですよね!

アントニオ猪木さん
引用元:BBMスポーツ

アントニオ猪木さんは、1960年(当時17歳)の時に、台東区体育館で大木金太郎さんを相手にデビュー戦を行いました。

この時猪木さんは、「試合の内容は、よく覚えていないのですが、10分くらいでしたか、あっという間に終わってしまった。」とお話しされており、デビュー戦の相手が10歳くらい上のベテランの大木金太郎さんだったこともあり、気が付けばフォール負けをしていたということが確認できます。

上の右側の画像は当時の試合のものです。結果は振るいませんでしたが、丁寧なお辞儀をしていて、試合に満足していたようでした。

引用元:X.com

アントニオ猪木さんは、1963年(当時19歳)の時に、長沢秀幸さんと試合しました。

この時アントニオ猪木さんは、「長沢さんの反則はそうひどくないんですが、馬力とスタミナがあるんで、やはり手強い相手です。」とお話しされており、当時から実力者として高く評価し、決して驕ることなく、対戦相手に敬意を持っていたことが確認できます。

上の画像は当時の試合の雑誌です。画質が荒いですが、表情は対戦相手だけでなく観客も圧倒するほどの気迫があります。

ギモンくん

アントニオ猪木さんの名前は、どのようにして命名されたのかな?

カイケツさん

それは、豊登道春さんが「ブラジル帰りの日系ブラジル人」であることを強調するため、アントニオ猪木になったみたいよ!でも他にも説があるらしいわ。

20代(1963年~1973年)

アントニオ猪木さん
引用元:東スポWEB

アントニオ猪木さんは、1964年(当時21歳)の時に、豊登道春さんに伴われて、ハワイ入りした後に単身でアメリカ本土へ渡り、約2年間武者修行をしました。

この時アントニオ猪木さんは、「トヨさんはじめ日本の皆さんの期待に応えられるよう頑張ってきます。」とお話しされており、多くの方々の期待に応えられるよう、精一杯努力しようとしていたことが確認できます。

上の画像はアメリカデビュー戦の時のものです。口を大きく開け、気合のこもった表情が印象的で、まるで雄叫びを上げているかのような迫力があります。

アントニオ猪木さん
引用元:Yahoo!ニュース

アントニオ猪木さんは、1966年(当時23歳)の時に、ジョニー・バレンタインさんを破り、US級王座を獲得し、初のシングル王座戴冠を果たしました。

この試合についてアントニオ猪木さんは、「爪が全部、はがれるほどの激しさだった」とお話しされており、その戦いは凄まじかったことが確認できます。

上の画像は当時のものです。意志の強さを感じさせる鋭さがあり、若さと力強さ、そして自信に満ちた姿が印象的です。

アントニオ猪木さん
引用元:日刊スポーツ

アントニオ猪木さんは、1967年(当時24歳)の時に、ジャイアント馬場さんと共にインターナショナル・タッグ王座を奪取しました。

この時のアントニオ猪木さんは、「今でも(挑戦表明した)当時と気持ちは変わっていないが、リングに上がれば馬場さんと一致団結するのは当然」とお話しされており、アントニオ猪木さんにとってジャイアント馬場さんはいい兄貴分として慕っていたのではないかということが確認できます。

上の画像は1970年(当時27歳)の時のものです。がっしりとした体格と、表情から試合に勝てた喜びが伝わってきます。

ギモンくん

アントニオ猪木さんとジャイアント馬場さんのタッグチームは、どうしてBI砲と言われたのかな?

カイケツさん

それは、プロ野球界で王貞治さんと長嶋茂雄さんのコンビが「ON砲」と呼ばれていたという理由から、ジャイアント馬場さんのBとアントニオ猪木さんのIの頭文字を取って名付けられたそうよ。
命名者は日本プロレス中継で実況を担当していた徳光和夫さんみたいよ!

30代(1973年~1983年)

引用元:NEWSポストセブン

アントニオ猪木さんは、1973年(当時30歳)の時に、新日本プロレスに合流しました。

この頃のことについてアントニオ猪木さんは、「プロレスを通じて大衆の人気をつかんでいかなきゃいけないと思っていました。」とお話しされており、プロレスを単なる闘いの場ではなく、リングの上での戦いを通じて、多くの人々の支持を得なければならないと考えていことが確認できます。

上の画像は当時のものです。はっきりとした目鼻立ちを持ち、その笑顔からプロレス界を引っ張っていこうとする強い意志が感じられます。

アントニオ猪木さん
引用元:smart Web

アントニオ猪木さんは、1976年(当時33歳)の時に、プロボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリさんと対戦し、引き分けとなりました。

この試合についてアントニオ猪木さんは、「5分くらいで楽に勝てると思っていた。かかえてホールドして上からドーンと落とせば終わると思っていました。」とお話しされており、格闘技の世界はボクシングが一番強いといわれていたが、自らの強さに誇りを持っていたが確認できます。

上の画像は会見に臨んでいる時のものです。力強い顎のラインが印象的で、落ち着いた自信のある表情の中に、少し微笑んでいるように見えます。まるで、会見の時から試合がうまくいくことを確信していたかのようです。

ギモンくん

アントニオ猪木さんは、どうして異種格闘技に出場するようになったのかな?

カイケツさん

当時、プロレスはマスコミの隅の方に追いやられていて、「世の中に何かショックを与えてやりたい」という理由から、モハメド・アリさんへ挑戦することになったみたいよ!

40代(1983年~1993年

アントニオ猪木さん
引用元:BBMスポーツ

アントニオ猪木さんは、1986年(当時43歳)の時に、第4回IWGPチャンピオン・シリーズで優勝しました。

この時アントニオ猪木さんは、「俺が勝てそうだとか言うのではなく、マスコミやファンが求めるのでもなく、それはまさに俺のカンなんだけど、その時が来たら俺はいつでも闘いますよ。」とお話しされており、試合について、どのような状況でも戦っていたことが確認できます。

上の画像はその試合の時のものです。表情は真剣で、相手の動きを慎重に見極めようとしているように見えます。

アントニオ猪木さん
引用元:時事通信

アントニオ猪木さんは、1989年(当時46歳)の時に、スポーツ平和党を立ち上げ、参院選比例区で初当選しました。

この時アントニオ猪木さんは、「政治は国民の声を聴いていない。プロレスがファンの気持ちを無視しては試合にならないのと一緒で、私は1人でも多くの人の切実な声を聞いて政治活動に生かしたい。」とお話しされており、アントニオ猪木さんがプロレスファンの気持ちを大切にしたように、政治でも国民の声を聞こうとしていたが確認できます。

上の画像は当時のものです。支持者や関係者が歓喜している様子からアントニオ猪木さんが政治家として期待されていたことがよくわかります。

ギモンくん

アントニオ猪木さんは、どうして政治家になったのかな?

カイケツさん

それは、「スポーツ交流を通じて世界平和を」という行動原理から、政治の世界に飛び込んだみたいよ!

50代以上(1993年~)

アントニオ猪木さん
引用元:スポーツ報知

アントニオ猪木さんは、1998年(当時55歳)の時に、東京ドームで引退試合をしました。この時アントニオ猪木さんは、

この道を行けばどうなるものか。危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。踏み出せば、その一足が道となる。迷わず行けよ、いけばわかるさ。

引用元:日刊スポーツ

とお話しされており、挑戦することの大切さや、迷わず前進することの重要性を力強く語っていることが確認できます。

上の画像はその試合の時のものです。リング上で歓声を浴びながら登場し、観客を鼓舞しているところが55歳とは思えないですよね。

アントニオ猪木さん
引用元:時事通信

アントニオ猪木さんは、2013年(当時70歳)の時に、日本維新の会から参院選で当選しました。

この時アントニオ猪木さんは、「(スポーツ外交という形で様々な国に行き、歓迎してくれる状況から)それをもうちょっと生かしていけたらと思ったわけです。」とお話しされており、スポーツの力が国境を超えて人と人をつなぐことを実感していて、そうした経験を通じて日本の外交をよりよくしたかったことが確認できます。

上の画像は当時のものです。非常に力強く、アントニオ猪木さん特有のエネルギッシュな姿勢が表れています。

ギモンくん

アントニオ猪木さんは、なぜ引退試合がドン・フライ選手だったのかな?

カイケツさん

それは、引退試合の相手を決めるトーナメントで勝利したという理由から、ドン・フライ選手になったみたいよ!

アントニオ猪木さんのお名前がついた”株式会社 猪木元気工場”はどんな会社?

引用元:東スポWEB

猪木元気工場は、アントニオ猪木さんに関するライセンス管理をしている会社です。企業コンセプトは以下の通りです。

「アントニオ猪木さんは、世代を超えた人気プロレスラーであるだけでなく、「1.2.3ダッー!」「元気ですか~」「元気があれば何でもできる」など大人から子供までが真似をするフレーズ、また、無謀とも思える異種格闘技へのチャレンジなど多くのプロスポーツ選手や人々に影響を及ぼし、海外でもプロレス交流を行い、その人脈は世界に通じ、イラク人質解放などの功績も残しました。

こうしたアントニオ猪木のプロパティを後世に引き継ぎ、時代を超えて、世界の人々の心に残すべく私たちはこのライセンス事業を運営していきたいと考えます。

【画像】アントニオ猪木と4人の妻との馴れ初めは?お墓はどこ?

アントニオ猪木と4人の妻との馴れ初めは?

アントニオ猪木さん
引用元:女性自身
アントニオ猪木さん
引用元:女性自身

アントニオ猪木さんには事実婚を含めて4度結婚していました。

最初の妻はダイアナ・タッタさんでした。1965年にアメリカ武者修行中に出会った人でした。ダイアナさんとは友人のホームパーティーで知り合ったそうです。2人は籍は入れずに内縁状態だったそうです。巡業で忙しいアントニオ猪木さんと異国暮らしのストレスを抱えるダイアナさんのすれ違いが原因で破局しました。

2人目の妻は女優の倍賞美津子さんです。仲を取り持ったのはプロレスラーの豊登道春さんでした。倍賞美津子さんが「トヨさん、たまには若い人を紹介してよ」と冗談を言ったときに「それなら猪木がいるよ」と、紹介したのがご縁だったらしいです。1971年11月に京王プラザホテルで結婚式を挙げましたが、1988年に離婚しました。

3人目の妻は 22才年下のキャリアウーマンの尚美さんです。飛行機で席が隣同士だったことがきっかけで話し親密になったそうです。1989年に結婚し、1990年に長男が生まれ一家でアメリカに移住しましたが、息子さんが成人した2012年に離婚しました。

4人目の妻はカメラマンで参議院議員時代の議員秘書だった橋本田鶴子さんです。1990年代後半から猪木さんの写真を撮り始めました。「猪木家の墓に入りたい」と懇願され、アントニオ猪木さんは田鶴子さんが喜ぶならと、婚姻届けにサインしたそうです。

ギモンくん

アントニオ猪木さんは、4人の女性と結婚したけれど、最後の奥様はがんで先に亡くしているらしいね。最期に入院していたときにお見舞いに来てくれた方はいたのかな?

カイケツさん

それは、アントニオ猪木さんは愛弟子やごく一部の関係者しか病室に入れなかったみたい。それでも倍賞美津子さんが見舞いに来るとアントニオ猪木さんは穏やかな笑みを浮かべたらしいわ。

アントニオ猪木のお墓はどこ?

アントニオ猪木さん
引用元:Number Web
アントニオ猪木さん
引用元:スポーツ報知

アントニオ猪木さんの遺骨は神奈川県の總持寺に納骨したそうです。總持寺はアントニオ猪木さんとアントニオ猪木の両親たちの遺骨が納められています。青森県の蔦温泉にもアントニオ猪木の墓はありますが、そちらには分骨はされていないそうです。

ギモンくん

アントニオ猪木さんは、どうして青森の蔦温泉にもアントニオ猪木さんのお墓はあるのにどうしてそこにしなかったのかな?

カイケツさん

それは、アントニオ猪木さん自体も最初總持寺のみということを言っていたということ、蔦温泉のお墓に眠っている田鶴子さんは支援者などの親しい人をアントニオ猪木さんから遠ざけるようにしていたという理由から、親族が總持寺のみに納骨することになったみたいよ!

アントニオ猪木さんがデビューした1960年はこんな年だった!

引用元:+DIGITAL文化遺産オンラインクレハ

アントニオ猪木さんがデビューした1960年は、「カラーテレビ登場」、「ダッコちゃんブーム」、「クレラップ発売」などの出来事があり、話題となりました。

また、この年の流行語は、「家つき、カーつき、ババア抜き」、「トップ屋」、「ナンセンス」などの言葉が流行りました。

アントニオ猪木のプロフィール・SNS

アントニオ猪木さん
引用元:WWE.com

プロフィール

  • 名前:アントニオ猪木(アントニオいのき)
  • 本名: 猪木 完至
  • 生年月日:1943年2月20日
  • 年齢:79歳(2022年10月1日没)
  • 出身地:神奈川県
  • 血液型:AB型
  • 趣味:旅行、ワイン、写真
  • 特技:ビールの早飲み(大ジョッキ2秒)
  • 所属事務所:株式会社 猪木元気工場

SNS

アントニオ猪木さん
ギモンくん

アントニオ猪木さんのビールの早飲みってどれくらい早いのかな?

カイケツさん

1989年プロレス授賞式のときに、アントニオ猪木さん、天龍源一郎さん、ジャンボ鶴田さん、長州力さん、坂口征二さんがコップにビールを公平に注ぎ、ドン荒川さんの「ヨーイドン」の声で一気飲み大会をしたの。

そのときアントニオ猪木さんはコップをちょっと動かしただけで飲み干したらしいわ!

他にもコニャック3本をわずか1時間あまりで空け、関係者の度肝を抜いたこともあったみたい。

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