女優・モデル・タレントとして活躍を続けている藤原紀香さん。
歌舞伎役者の片岡愛之助さんとご結婚され、梨園の妻としても注目されてきました。
今回は藤原紀香さんの若い頃を振り返り、現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!
【画像】藤原紀香は若い頃かわいい!
10代(1981年〜1991年)
引用元:X藤原紀香 制服
— 懐かしい昭和時代(女性) (@natsukashi__) December 19, 2020
女性セブン 1999年(平成11年)1.21号 #藤原紀香#平成#昭和 pic.twitter.com/8gYwD2V67k
藤原紀香さんは子供の頃、弟さんと野山を駆け回り、関西弁で言うと「ごんたくれ」という、アクティブな遊びをするほどやんちゃだったため、よく男の子と間違えられていたそうです。
小学生時代は男の子に混じり少年野球をしていました。当時は男子しか入れないチームに「なんで女子は入れないの?」とコーチに直談判して入部し、ポジションは3番でファーストを守っていたそうです。
「大学時代にはバッティングセンター通いは趣味でした」ともお話しされ、ずっと野球が趣味だったことをブログで語られています。
上の画像は中学生時代の制服姿です。中学校は私立の女子校で、男まさりな娘を心配して父親が選んだという噂があります。バスケットボール部所属ということで、ボブヘアーがボーイッシュで可愛らしいですよね!
引用元:アメブロ X1989年センバツで優勝した東邦のセブンティーンリポーターの藤原紀香(親和女子高)は、試合後のアルプス席で「たくさんのいい思い出と溢れんばかりの感激を与えてくれたセンバツにありがとぉ」と泣きながらリポートしていた。
— 社会人野球のミカタ📰 (@shakaijin_base) March 31, 2022
ワイもあの場にいたけど、史上最も衝撃的な結末に涙が溢れそうになった。 pic.twitter.com/hRwuCMgRGR
藤原紀香さんは1988年(当時17歳)の時に選抜高等学校野球の『セブンティーンリポーター』に選ばれます。自ら応募し、「スポーツと私」という作文を書いて合格しました。
年に10人ほどの高校生リポーターが選ばれ、毎日放送のテレビ番組『球春!センバツ甲子園』に出演しました。リポートを行ったことで人に物事を伝える面白さを感じ、将来はアナウンサーやリポーターになることが夢になったそうです。
藤原さんはその頃について「その年の選抜にずっと甲子園へ通って、真っ黒に日焼けして。バックネット裏にいって負けた選手のしょんぼりした背中を見たりとか、コメントをしたりとか」「すごいなー、スポーツってすごいなーって思った」とお話しされています。
1枚目は高校1年生、2枚目は2年生のリポーターの頃の画像です。どちらの写真からも若い頃から美少女だったことがよくわかりますよね。

こんなに活発な藤原紀香さんが、高校時代に落語研究会に所属していたそうなんだけど本当?

そうなの!ちゃんとその頃の芸名もあって、『親和亭かつお』というそうよ。通っていた高校名の「親和」と、アニメ「サザエさん」のキャラクター「磯野カツオ」から付けられたんですって。
「わたしはワカメとかサザエが良かったんですけど、みんなの中でのわたしのキャラなのかな、『あんたはカツオや』って」と決められてしまったとお話しされているわ。
20代(1991年〜2001年)
引用元:NEWSポストセブン
上の画像は1992年(当時21歳)の『第24回ミス日本』グランプリを受賞した時の写真です。藤原紀香さんは1991年(当時20歳)の時に突然ミス日本コンテストの書類選考を通過したとの知らせが届きました。
実はミス日本には母がこっそり応募した。「母はミス岡山に応募したが、祖父が厳しくて『女性は台所に立っていればいいんだ』という考えだった。それで最終審査に出られなかった。だから、私に夢を託したみたい。私は一次審査の合格通知が来て初めて応募を知った」という。
ところが、その母もいざ紀香が頂点に輝くと、父とともに芸能界入りに反対したそうで「それならどうして応募したのかな」と苦笑した。
引用元:東スポWEB
最終大会の時のことを「神戸の大学生だった20歳。最終大会10人まで残り、初めて東京という土地にたどり着き、ドキドキしながら、会場である溜池のの全日空ホテルに向かった記憶があります」と懐かしそうにお話しされています。
引用元:日刊スポーツ
藤原さんは、ミス日本グランプリをきっかけに芸能界入りを望むも、家族からの大反対を受けてしまいました。
地元の西宮と東京を往復しながら「大学の単位を1単位も落としたら、芸能界は許さない」と言われ、必死に円形ハゲを作りながら活動したそうです。
上の画像は1993年(当時22歳)『クイズ紳助くん』の初代アシスタントをされていた頃のものです。この頃はキャンペンガールやモデル、タレントとして活動されていました。
そんな中、1995年(当時24歳)阪神淡路大震災を経験します。
「それまで両親には反対されていたけど、あの時に人生観が変わって。“ホップ・ステップ・ジャンプのホップもしてないのに、諦めるのは嫌だな”と思って。震災の2カ月後、“何の援助もいりませんから、私は行きます!”って言って、東京に出ました」と親元から離れ、上京することを決意しました。
引用元:X藤原紀香主演ドラマ「ナオミ」✨ pic.twitter.com/mo9WexfXJs
— けんぼー (@kenbonatsuiro) September 9, 2020
藤原紀香さんは上京後なかなか仕事が得られず、オーディションを受けても落ち続ける日々を過ごしていました。三角形に近い形の6畳の部屋に住み、食事は母親の実家から送ってもらった、紀州梅と白米だけという時期もあったそうです。
1997年(当時26歳)木村拓哉さん、松たか子さん主演の『ラブジェネレーション』への出演が転機となり、その後から大きな仕事が依頼されるようになります。
1998年(当時27歳)にはJ-PHONE(現ソフトバンク)の世界初とされるカメラ付き携帯電話のCMで一気にブレイクし、「写メ」という言葉と共に藤原紀香さんの認知度が上がりました。その後1999年から2001年まで全37社と契約、CM出演し「CMの女王」ともよばれるほどになりました。
上の動画は1999年(当時28歳)初主演ドラマ『ナオミ』です。3人のナオミが互いに反発しながらも、私立の進学校を舞台に生徒や学園の問題解決に挑んでいく姿が描かれていました。

藤原紀香さんは着物が好きで、自分で着付けもできるんだって!

20歳の時にミス日本グランプリを受賞したことで、海外を回る必要性から着付けの免許を取ったそうよ。20代の半ばからは着物や帯を1つずつ大切に集めているんですって!素敵よね!
30代(2001年〜2011年)
引用元:X X激動のアフガニスタン藤原紀香31歳の決意
— Arai (@pga02654) December 1, 2023
2002年アフガニスタンを訪問した時の番組。シバトゥ村の子供たちと触れ合い、少女から「泊まって下さい」…これは何とも切ない。ウルルン滞在期だ。その少女から8年後に手紙が来たという…
子供と触れ合うと後を引く…経験者
その後、再訪したかなぁ? pic.twitter.com/5ewYreVZslドラマ愛と青春の宝塚です!藤原紀香さん木村佳乃さん中谷美紀さん米倉涼子さん春花さんが戦前から戦中の宝塚歌劇団!椎名桔平さんや仲村トオルさんも出ています!戦中の大変な時でも一生懸命宝塚を守り強く生きたタカラジェンヌの物語です! pic.twitter.com/hXGbTFsaoC
— チャッピー (@morimorikuriman) June 3, 2023
藤原紀香さんは2002年(当時31歳)『24時間テレビ』や『スーパーテレビ特別版激動のアフガニスタン』で、紛争の爪痕の残るアフガニスタンへ訪問され、レポートを行いました。
この番組は、藤原さん自身が自分の目で見たアフガニスタンの現状を伝えたいと、テレビ局に企画を持ち込み実現させたものだったそうです。
とても厳しい環境の中で生活している人々や、子どもたちに触れ、この現地の状況を伝えるべく写真展やトークショーを国内外の各地で開催するようになりました。
2007年(当時36歳)には日本赤十字社の広報特使に就任され、2010年(当時39歳)にはNPO法人『Smile Please藤原紀香世界こども基金』を設立し、現在もカンボジア・アフガニスタンに学校を建設したり支援事業を行っています。
上の画像は2002年の時のものです。アフガニスタンでのリポートと、ドラマ『愛と青春の宝塚』の画像です。同じ時代を生きている中で、こんなにも生活や環境が違うのかと愕然とし、色々と考えさせられてしまいます。
引用元:スポニチアネックス 音楽ナタリー
藤原紀香さんにとって30代後半は激動の数年間になりました。
藤原さんは、2007年(当時36歳)に芸人の陣内智則さんと結婚されますが、2009年(当時38歳)には離婚を経験されます。「30代においての大きな転機だったと思う」とお話しされており、申し訳ないという気持ちで離婚を何度も踏みとどまったとお話しされています。
上の画像は離婚を発表された2009年主演ドラマ『ツレがうつになりまして。』と『ギネ 産婦人科の女たち』です。藤原さん自身毎日仕事もできなくなるほど苦しくて、睡眠薬を飲まないと眠れず、うつ寸前だった経験後のお仕事でした。
このドラマの夫婦像に共感する部分を、収録の会見時に聞かれ「この夫婦は、求め合って支え合っている夫婦なんだなって思う」と話された言葉の重みを感じます。

藤原紀香さんは、この頃から2025年現在までに20年間、国際的な活動や人道支援を行っているよね。

やっぱり1995年の阪神淡路大震災を経験したことが原点になっているそうよ。「一度しかない人生だから悔いのないように生きなきゃ」と上京されてきたのだもの。お仕事で海外の現状を見られたことも行動されるきっかけになったんじゃないかしら。
当初はボランティアについて「欧米じゃないんだから」と周囲の業界人に忠告されたそうなんだけど、現場を見て「体が動き出した」んですって。カンボジアには『スマイルプリーズ藤原紀香世界子ども基金』からすでに学校が4校建てられているのよ!
40代以上(2011年〜)
引用元:デイリー eltha
2012年(当時41歳)藤原紀香さんはフォトブック『N.Perfect body』を出版されました。セクシーショットを惜しみなく盛り込んだ写真集の中でも、特にお気に入りは上の画像の鍛えられたお尻の写真だそうです。
「ずっとこういうテイストの写真で本が作りたかったんです。長年の私の夢がかなった。41歳になってこれが作れる奇跡に感謝しています」とお話しされています。
『2012年 目指したい体型の有名人ランキング』では3年連続トップとなるほど、40代になっても美しい藤原さんのボディーラインは、女性たちの憧れでした。
アンケートの回答も「ただ痩せているのではなく、女性らしい丸みを帯びたラインはセクシーで男性受けも良いと思う」「とくにくびれに魅力を感じる」と健康的でメリハリのある美しさに賞賛の声が上がっています。
引用元:Instagram
藤原紀香さんが女優を目指したのは、1988年のドラマ『抱きしめたい!』のW浅野(浅野ゆう子さん・浅野温子さん)に強く惹かれたことがきっかけだったそうです。
上の画像2021年(当時50歳)浅野ゆう子さんと舞台『魔界転生』で初共演を果たします。出身は兵庫県同士で同郷、モデルとしても理想としていたそうです。
「私はお芝居でゆう子さんと一緒だって聞いた時に、本当にうれしくて。本当に私は浅野さんに憧れて」とお芝居での共演することが決まった時の喜びを浅野さんにお話しされています。
引用元:ORICON NEWS
2025年4月13日大阪・関西万博が開幕されました。
藤原紀香さんは『日本館』名誉館長に就任され、会期中は日本館を代表し、国内外から訪れる人々をお迎えし、日本館の魅力を広く発信していくそうです。
開幕初日には伝統色である淡黄色の春らしいお花が咲き誇っている訪問着で来場者を迎えられ、「春はあけぼのですから、季節柄、ぼかしや霞のイメージで選びました」と当日の装いについてお話しされていました。
2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)は、「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマに、4月13日から10月13日までの約半年間、大阪市の人工島「夢洲」で開催されます。
日本を代表する名誉館長は、元ミス日本グランプリで美しく和装を着こなし、国際的な人道支援などの活動をされている藤原紀香さんにぴったりの役目だと思います。

そういえば、藤原さんのお母さんは芸能界には断固反対していたのに、どうしてミス日本コンテストに娘を応募させたんだろう?

実は、お母様は単にお見合いの『箔付け』になると考えて、応募されたのだそうよ。
母は私よりも背が高くて、若いころダンスホールでも男性に敬遠され結婚は無理だと思っていたんですって。父とははとこ同士でお見合い結婚。だから、私にもお見合いしてほしかったの。
引用元:Wendy-Net
【画像】藤原紀香と旦那の馴れ初めは?陣内智則との結婚~離婚理由は?
藤原紀香と旦那の馴れ初めは?
引用元:スポニチアネックス 朝日新聞デジタル
引用元:毎日新聞 アメブロ
藤原紀香さんは2016年3月30日に歌舞伎俳優の片岡愛之助さんと再婚され、同年3月31日に記者会見を開かれました。
交際・結婚に至ったきっかけは、当初は友人関係だったところ2015年女性週刊誌に2人の同棲を報じられ、否定する中でお互いに大切な存在だったことに気がついたそうです。
2011年、藤原さん主演の舞台『マルグリット』をいとこの片岡孝太郎さんにつれられて片岡さんが観劇したことが出会いの始まりでした。片岡さんは2010年に藤原さんが立ち上げた『Smile Please藤原紀香世界子ども基金』にも賛同されており、ボランティアに参加されたそうです。
再会はその2〜3年後、今度は藤原さんが片岡さんの舞台を観劇され、友人付き合いが始まりました。
週刊誌の報道までは、片岡さんは藤原さんに対して素敵だなと思いながらも、役者仲間として付き合って行こうと思っていたそうです。
男女の仲って付き合うと別れがやってくるじゃないですか。でも正直僕も、なんて言えばいいんですかね。結婚をするという意識は自分ではまったく今までなかったんですね。結婚する気というのもなかったので、例えば彼女とお付き合いしても、別れることになるな。で、別れて会えなくなるんだったら僕は、お友達のほうがいいかなと思って。
引用元:Yahoo! JAPAN NEWS
週刊誌の報道で、双方の事務所に「お付き合いしてないんだったら会うのをやめてくれ」と言われ、しばらく会えなくなったことでお互いに気持ちを再確認したことが結婚につながったそうです。

付き合っていないのに「同棲している」なんて週刊誌で言われたらびっくりしてしまうよね!

そうよね!でも、結果的には背中を押してもらったような感じになったのね。片岡さんも「マスコミさんに感謝でございます。ありがとうございます。」なんてお話しされていたわ。
藤原紀香と陣内智則の馴れ初めから離婚理由は?
引用元:週刊女性PRIME 週刊女性PRIME
引用元:X陣内智則・藤原紀香の結婚披露宴で披露された、コブクロ「永遠にともに」 pic.twitter.com/3EfK8s70TQ
— 風化させないbot (@bot05179422) April 18, 2019
2006年12月26日に藤原紀香さんは、陣内智則さんと日本テレビで幸せいっぱいの婚約会見を開かれました。
出会いは日本テレビ系のスペシャルドラマ『59番目のプロポーズ』でオタク役の陣内さんが美人編集者の藤原さんに恋をし、思いが実るというストーリでした。
ドラマの最終日に陣内さんが藤原さんに手紙を書いて渡したそうです。ドラマ撮影中は全く話せず、陣内さんにとって藤原さんは想像上の人物だったとお話しされています。撮影終了後の手紙をきっかけにやり取りが始まり、交際がスタートしました。
目立った交際の噂がなかったまま、美人女優とお笑いピン芸人のスピード婚という衝撃ニュースは当時大変な話題になり、2007年5月30日豪華“テレビ中継”披露宴が行われました。
その際披露された陣内さんが藤原さんに内緒で練習していた、コブクロの『永遠にともに』をピアノを弾きながら熱唱するサプライズが、いまだに語り継がれています。
ところが、わずか2年足らずで2人の結婚生活は破局を迎えることになってしまいました。2009年3月24日、陣内智則さんは単独で記者会見を開き、100人の報道陣が集まったそうです。
「私、陣内智則は、藤原紀香さんと正式に離婚致しました。全ては僕の未熟さ、心の弱さが原因です」
黒のスーツ姿で陣内さんは自身の女性問題で破局にいたり、「紀香さんを傷つけてしまいました」と語りました。格差婚と揶揄されていた結婚は、やはり長くは続きませんでした。

お2人の披露宴も豪華だったけど、挙式もすごかったんだよね?

挙式は神戸の生田神社で行われて、美しい花嫁をひと目見ようと雨の中多くのマスコミや、2000人ほどのファンが駆けつけたんですって。
陣内さんは束帯姿、藤原さんは十二単を特注されて総額1000万円の豪華な衣装だったの。最寄りの三宮駅周辺も、お2人の門出を祝って記念セールやキャンペーンが至る所で行われたそうよ。
藤原紀香のプロフィール・SNS
引用元:経済産業省
プロフィール
- 名前:藤原紀香(ふじわらのりか)
- 本名: 片岡紀香
- 生年月日:1971年6月28日
- 年齢:53歳(2025年4月現在)
- 出身地:兵庫県
- 血液型:A型
- 趣味:女磨き・書・陶芸・写真・スポーツ観戦・神社仏閣・動物園・サファリパーク・絶叫マシン・温泉
- 特技:歌・釣り・アニメ
- 業務提携:ケイダッシュ
SNS
- Instagram URL:https://www.instagram.com/norika.fujiwara.official/
- facebook URL:https://www.facebook.com/norika.fujiwara628/
- オフィシャルサイト URL:https://www.norika.ne.jp/

- 公式ブログ URL:https://ameblo.jp/norika-fujiwara628/


藤原紀香さんて、すごい雨女だって知ってた?

ご自身でも自覚されているのよね。子供の頃から遠足や運動会は絶対雨だったそうなの。でも悪いことばかりじゃなくて、以前乾季のケニアで雨が降って、洪水にまでなり野生動物もマサイ族もとても喜んだんですって!