一般家庭の出身でありながら、恋愛結婚により皇族になられた美智子様。
災害時の避難所で、床に膝をつき目線を合わせて人々の心に寄り添われるお姿は海外からも称賛されています。
今回は美智子様の若い頃を振り返り、現在のご活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!
【画像】上皇后美智子様若い頃美人!
幼少期・10代(1934年~1954年)
引用元:Wikipedia
上皇后美智子様は1934年、日清製粉グループ会長の正田英三郎さん・正田富美さん夫妻の長女として、東京府東京市本郷区(現・東京都文京区東部)の東京帝国大学医学部附属病院で生まれました。
大和郷(やまとむら)幼稚園、雙葉(ふたば)小学校附属幼稚園を経て雙葉小学校に入学しますが、疎開のため神奈川県・群馬県・長野県などの小学校に転校を繰り返し、軽井沢で終戦を迎えました。
疎開先の小学校では「ミッチ」と呼ばれて人気者になり、他校対抗競技に毎回出場し、ランニングでは常に優勝していたのだとか。学芸会では「ダニューブ(ドナウ川)のさざなみ」をピアノ演奏し、友人を驚かせたそうです。
上の画像は、6歳頃の美智子様です。美智子様は小学校の担任の先生から「真面目な女子児童」「活発で勝ち気」と評価されますが、この頃から既に利発そうな雰囲気を纏われていますね。
引用元:婦人画報
小学校卒業後は港区白金の聖心女子学院に進学し、中等科・高等科・大学の、10年間の聖心時代を過ごされます。中高時代も成績はトップクラスで、特に英語・国語・社会が得意だったのだとか。
当時の愛称はお名前から取った「ミッチー」「ミチ」の他に、アメリカの子役のシャーリー・テンプルさんのようなパーマの髪型だったことから「テンプルちゃん」などもあったそうです。
中等科2年生で寺田寅彦全集を読破して文学に目覚め、3年生からはピアノを本格的に習い始め、高等科2年生の夏からテニスを始めました。得意の英語は外国人の先生のレッスンでますます上達され、絵の勉強にも熱心だったそうです。
得意分野もあまり多いとどれも中途半端になるという意味の「器用貧乏」なんていう言葉もありますが、美智子様はどの才能も抜きんでている「多芸多才」のほうだと思われます。
上の画像は、聖心女子学院高等科3年生(当時18歳)の美智子様です。額を出した髪型が大人っぽくて素敵ですね!

美智子様は昔も今もふわふわとカールしている髪が素敵だけど、
ずっとパーマをかけてるのかな?

あの髪型は天然パーマみたいだよ!
髪をとかしただけで海外の子役みたいな髪型になれるだなんて、
当時身近な所にいた女の子は憧れてたかもね。
20代(1954年~1964年)
引用元:週刊女性PRIME
聖心女子学院高等科卒業後は、聖心女子大学文学部 外国語外国文学科(現・英語英文学科)に進学されました。
在学中に中学と高校の英語の教員免許を取得し、クラスの福祉委員(ウェルフェア・メンバー)委員長やプレジデント(全学自治会会長)としても活動され、卒業式では総代として答辞を読んだとのことです。
美智子様はエッセイがずば抜けて得意で、大学3年生の時に読売新聞社主催の「はたちのねがい」という作文募集に応募されました。「虫くいのリンゴではない」という作文で、応募点数4185点中2位に輝いたのだとか!
クラブ活動では合唱部・英語劇クラブ・テニス部に所属されて、テニスでは在学中に新進トーナメントに優勝して、関東学生ランキングの第4位にランクインされました。文武両道でかっこいいですね!
上の画像は、大学時代にご友人達と北海道旅行をされた時の写真です。前列の中央左側の方が美智子様だと思われます。大学時代のご友人とは卒業後も絵を贈られたり年賀状をやりとりされたりしていたそうです。
引用元:Number Web
大学卒業後の進路について、美智子様ご本人は大学院への進学も考えていましたが、ご両親の意向もあり家庭に入ることになりました。
そして1957年(当時23歳)、長野県北佐久郡軽井沢町の軽井沢会テニスコートで避暑に訪れていた当時の皇太子様(第125代天皇)と出会います。お二人はテニスを通して交際を深めました。上の画像はご成婚前のお二人です。
皇太子様は宮内庁職員の作品展に「女ともだち」と題した美智子様の写真を出品されましたが、「皇太子妃は旧皇族・華族から選ばれるのが当然」と考えられていた時代だったため、誰も美智子様をお妃候補とは思わなかったのだとか。
引用元:JIJI.COM
皇太子様が積極的に美智子様とのご結婚を考えていることが分かると香淳皇后などから反対の声が上がりましたが、1958年(当時24歳)11月にお二人のご結婚について皇室会議で満場一致で可決されました。
記者会見で皇太子様の魅力について聞かれて「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」と答えたのが当時の流行語になりました。
1959年1月に納采の儀(結納の起源である儀式)、同年4月10日に結婚の儀が執り行われました。上の画像はご成婚パレードの写真です。
明治以降では初の皇族・華族以外からの皇太子妃で一部の皇族からの反対意見はありつつも、市民からは熱烈に歓迎され、国民的な「ミッチー・ブーム」が起こります。
美智子様がテニスをされる時の服装「白地のVネックセーター・ヘアバンド・カメオのブローチ・ストール・白の長手袋」などが「ミッチー・スタイル」として大流行しました。
引用元:AERA dot.
美智子様は、1960年(当時26歳)に第1子の徳仁親王(現・天皇陛下)を出産されました。これが皇室史上初の病院での出産でした。一般人でも1950年代までは自宅での出産が主流だったようです。
美智子様は昭和天皇と香淳皇后から「ごくろうさまでした。しっかり静養するように」と労いの言葉をかけられ、命名は昭和天皇が行ったとのことです。
同年9月22日から10月7日、幕末から数えての日米修好100周年を記念し、アメリカ合衆国連邦政府より招待され訪米しました。ホワイトハウスにも招待され、ドワイト・アイゼンハワー大統領夫妻と会談したそうです。
この時生後7ヶ月だった徳仁親王は伴わず、躾の方針を示したメモ・通称「ナルちゃん憲法」を側近に渡して養育を委ねました。
そのメモには、「駄々をこねたら叱ってください」「1日に1度は抱っこして」など、きちんと躾けて愛情はたっぷりと注ぐことが書かれていたのだとか。

ご成婚パレード、ものすごい人の数だね!
何人くらいいたのかな?

約8kmのパレード沿道に53万人の群衆が詰めかけたんだって!
「現地に行くことは難しいけどせめて実況生中継を見たい」
ということで、このためにテレビを買う人が急増して、
NHKの受信契約数は200万台を突破したみたいだよ。
30代(1964年~1974年)
引用元:JIJI.COM
上の画像は、1964年(当時30歳)11月のパラリンピック東京大会で各国の選手達を激励される皇太子様と美智子様です。
当時の日本では障害者スポーツは一般的ではありませんでしたが、皇太子様と美智子様は第1部(国際大会)と第2部(国内大会)の開会式と閉会式にそれぞれご出席され、大会開催中は連日お二人で競技会場に足を運んだそうです。
皇太子様が大会終了後に東宮御所へ関係者を招いて慰労し、「このような大会を国内でも毎年行ってもらいたい」と述べたのがきっかけとなり、翌65年から身体障害者スポーツの全国大会が毎年開催されるようになったのだとか。
時代が平成に変わっても障害者スポーツの大会は行われ続けており、現在は大会を見守る役割を現・天皇陛下に引き継がれています。
引用元:講談社コクリコ
その後は1965年(当時31歳)に第2子・第2男子の文仁親王が、1969年(当時35歳)に第3子・第1女子の清子内親王が誕生しました。上の画像は、生まれたての清子内親王を抱っこして愛情深い眼差しを注ぐ美智子様です。
美智子様にとって、唯一の娘である清子様の存在は大きな心の支えになったとされています。1977年(当時43歳)から10年間は毎年2人で陵墓・史跡訪問を含む小旅行を行っていたそうです。
そして出産にあたり、皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母(めのと)制度、傅育官(ふいくかん)制度を廃止されました。乳母は母親に代わって母乳を与えたり子育てをしたりする女性のことで、傅育官は教育係のことです。
制度が廃止されるまでは「親子が一緒に暮らすと厳しい躾が出来ない」という考え方が根強かったようです。
上皇陛下も3歳でご両親から引き離され、美智子様とご結婚されるまで家族での生活をご存知なかったので、これらの制度を廃止して親子が同居する・親が子を育てるというのは皇室にとって新しい暮らしの形でした。

「子供を親から離して厳しく育てる」なんて、
今の感覚だとかわいそうだと思うけど……。
その考えはどこで生まれたんだろう?

元々は京都の公家の風習だったみたいだね。
「親子愛などは私的な感情に過ぎず、公務の妨げになる」
と考えられていたんだって。
40代以上(1974年~)
引用元:婦人画報
美智子様と皇太子様は1984年(当時49歳)に銀婚式を迎えられました。上の画像は、その記者会見の写真です。
「美智子様に妻や母として点数を付けるなら何点ですか?」という記者の質問に対し、皇太子様は「長い年月にわたって私を大切にしてきましたし、子どもたちも明るく育っています。お点を付けるのは難しいけれども、努力賞ということで」とお答えになりました。
それを聞いて美智子様が「私も差し上げるとしたら、お点ではなく感謝状を」とおっしゃったので、会場では感嘆の声が上がったのだとか。
「殿下のお導きがなかったら、私は何もできませんでしたし、また東宮さまのご指示とお手本がなかったら、どうして子どもを育てていいのかもわかりませんでした」
引用元:婦人画報
「一般家庭から皇室に入られてのご苦労は?」という質問に対しては、「この結婚しか経験が無いので苦労が多いかどうかを比べることは出来ません」とお答えになりました。
一般人としては「皇室だからこその苦労というものもあるのでは」と想像してしまいますが、そこで愚痴や苦労話を出さないところに美智子様のお人柄や人間性を感じますね。
引用元:女性セブンプラス
2011年3月11日、大災害「東日本大震災」が日本を襲いました。この時の天皇陛下と美智子様の行動が国内外から評価されています。
同月30日に天皇陛下と美智子様(当時77歳)は東京都足立区の東京武道館を訪れ、福島県などから来た多くの被災者を励まされました。苦境を訴える人々の手を握りしめ、乳児を連れたお母さんには「おむつは足りていますか」と訪ねられました。
この日からお2人は7週連続で福島・宮城・岩手の被災3県と千葉・茨城などの避難所を回られ、それもその場の人々と同じように床に膝をついて被災者を励ましていたため、「真のリーダー」「素敵な光景だ」と海外から感動の声が上がっています。
こうした被災者への寄り添い方は現在の天皇・皇后両陛下にも受け継がれ、能登半島地震の避難所でもお二人は膝をついて被災者と同じ目線でお話をされていました。
「この間は公務もあり、休日はほとんどありませんでした。特に天皇陛下は翌年心臓の手術をされたほどで、体調も悪かった。しかも身内に死者や行方不明者を抱えた被災者一人ひとりの声に耳を傾けるのは、精神的にもおつらかったでしょう。」
「それを7週連続でこなされたのは、両陛下にとって『旅』は覚悟を持って臨まれるものであり、象徴天皇として、国民に自分たちの姿を示さなければならないとお考えになられているからだと思います」
(歴史探訪家・文筆家 竹内正浩さん)引用元:NEWSポストセブン

美智子様達は国内外をあちこち訪問されていたみたいだけど、
どれくらいの距離を移動されたのかな?

即位後だけで計算しても62万kmを超えてるんだって!およそ地球15周半分の距離だよ。
高齢者と言われる年齢になられてからは国内の移動でも体力的にお辛い時があっただろうに、すごいよね。
美智子様が育った正田家にはどんな方々がいる?
引用元:JIJI.COM、Yahoo!ニュース、日本食糧新聞
美智子様の生家「正田家」には、お父さんの正田英三郎さん(日清製粉名誉会長)、お兄さんの正田巌さん(元日本銀行監事)や弟さんの正田修さん(日清製粉グループ本社取締役会長)などがいらっしゃいます。
【画像】上皇后美智子様の妹と佳子様はそっくり!雅子様との関係は?
【画像】美智子様の妹と佳子様はそっくり!
引用元:朝日新聞
引用元:東京新聞
皇室の方々はお顔立ちが和風なことが多いですが、秋篠宮家の次女の佳子様はその傾向とは少し異なるようです。眞子様と悠仁様は父親の秋篠宮様と似ていますが、佳子様は似ていないので「誰に似たのだろうか」と気になる方も多いのではないでしょうか。
「母親の紀子様に似たのではないか」「祖母の美智子様に似ている」と言う人もいて、確かにお二人ともお綺麗な方ですが、写真を見比べると種類の違う美人という感じがします。
有力なのが「美智子様の妹の正田恵美子さんに似たのではないか」という説だと思われます。上の画像は、1枚目の白黒写真が正田恵美子さんで、2枚目が佳子様です。表情の違いはありますが、目の大きさや鼻筋や口元など、確かに雰囲気が似ていますね。
祖母の妹というと「大叔母」という関係で少し遠いですが、こういう遺伝のしかたもあるんですね。

美智子様の妹さんの正田恵美子さんはどういう方なのかな?

実業家の安西孝之さんとご結婚されているみたいだね。
安西孝之さんというのは、レゾナック・ホールディングス(旧・昭和電工)の社長だった安西正夫さんの長男だよ!
【画像】美智子様と雅子様の関係は?
引用元:文春オンライン
引用元:文春オンライン
美智子様と雅子様には「元一般人」「恋愛結婚で皇族になられた」という共通点があり、お二人とも世の女性の憧れの存在となりました。が、一部では「美智子様は雅子様に冷たくしているのでは」と囁かれています。
きっかけは元宮内庁職員のブログ記事のようです。内容は「雅子様に海外のご公務を任せなかった」「美智子様は雅子様を仲間外れにしている」などでしたが、こちらのブログは既に削除されているため話に尾ひれがついて噂が独り歩きしている可能性があります。
かつて宮内庁から雅子様に「考えるべきはお世継ぎであって、公務のあり方を考える必要はない」と伝えたとされており、これは美智子様から宮内庁に指示をしたのではないかと噂されていますが、真偽は不明のようです。
一般人の目のない所では確かにどのような接し方をされているのかは分かりませんが、少なくとも2018年の音楽大学卒業生演奏会ではお二人ともにこやかにお話されていましたし、同年の全国赤十字大会では雅子様に優しく手を差し伸べる美智子様のお姿に称賛の声が上がっています。
お姑さんとお嫁さんの関係というのはいつの世も難しいもので、それは一般人も皇族も変わらない部分かもしれませんが、これからもお二人には良好な関係を築いていってほしいですね。

美智子様のご成婚パレードは多くの人が詰めかけたらしいけど、
雅子様の時もそうだったのかな?

そうみたい!パレードの沿道には19万人が集まったし、
テレビ中継放送の最高視聴率は79.2%を記録しているんだって!
上皇后美智子様のプロフィール・楽曲・著書
引用元:25ans
プロフィール
- 名前:上皇后 美智子(じょうこうごう みちこ)
- 旧名: 正田 美智子(しょうだ みちこ)
- 生年月日:1934年10月20日
- 年齢:90歳(2025年4月現在)
- 出身地:東京府東京市本郷区(現・東京都文京区本郷)
- 血液型:A型
- 特技:語学・ピアノ・エッセイ
楽曲・著書
- 「ねむの木の子守歌」(1966年)
- 「はじめての やまのぼり」(1991年)
- 「愛のゆりかご 日本の子守歌」(1995年)
- 「どうぶつたち (The Animals):まど・みちお詩集」(1998年)
- 「ふしぎなポケット (The Magic Pocket):まど・みちお詩集」(1998年)
- 「橋をかける--子供時代の読書の思い出」(1998年)
- 「バーゼルより--子どもと本を結ぶ人たちへ」(2003年)

美智子様が作詞をされた「ねむの木の子守歌」って、
レコード化は1966年だけど、書かれたのはいつ頃なんだろう?

これは高校時代に書かれたものみたいだよ。
その頃に詩の交換をしていた美智子様のご友人が雑誌に発表して、
それを読んだ山本正美さんが感動して曲を作ったんだって!