俳優、司会者、歌手、タレントとして幅広く活躍し、「日本のお母さん」と呼ばれ多くの人に愛されきた森光子さん。
代表作の舞台「放浪記」では国民栄誉賞も受賞されました。東山紀之さんと親交が深かったことでも知られてます。生涯現役を貫き、78年にも及ぶ長い芸能生活は波乱万丈なものでした。
今回は森光子さんの若い頃を振り返り、死去されるまでの変遷をお届けいたします!
【画像】森光子は若い頃美人!
10代・20代・30代(1930年~1960年)
引用元:朝日新聞デジタル
京都木屋町で生まれた森光子さん。松竹少女歌劇のスターを夢見て芸能の道に進み、1935年、15歳の時に映画「なりひら小僧・春霞八百八町」でデビューしました。
1941年(当時21歳)には東海林太郎さんの前座歌手として日本軍の慰安団に参加し満州などを巡られ、終戦後は京都で再び芸能活動を始めました。
しかし、1949年(当時29歳)に肺結核を患って約3年間、活動を休止することになります。その時、同窓生の医師に偶然再会して命を救われました。この時のことを「私には、ここぞというときは天の助けがあるようなのです」振り返られていました。
闘病生活を終えてからは、バラエティー番組で喜劇俳優として活躍されていましたが、この頃は脇役ばかりで「あいつよりうまいはずだがなぜ売れぬ 」と川柳を詠んだそうですよ。
上の画像は、1957年4月22日から1960年5月22日まで(当時37歳から40歳)中田ダイマル・ラケット主演、朝日放送のコメディ番組「びっくり捕物帳」にレギュラー出演された時のものです。元祖お笑い番組でも大活躍されていたそうです!

森光子さんは結婚していたのかな?

26歳の時に日系二世の米兵リチャード・ウエムラさんと結婚したけど、1週間後にハワイに帰ってしまってそれっきりだったみたい。
さらに、39歳の時にはプロデューサーの岡本愛彦さんと再婚したけど、忙しすぎてうまくいかなかったらしいわ。森さんは「もう二度と結婚しない。これからは役者ひと筋に生きていく」と決意したみたいよ。
40代(1960年~1970年)
引用元:ナタリー、日刊スポーツ
森光子さんは、1961年(当時41歳)の時に、前年の舞台で高い評価を受け、舞台「放浪記」で人生初の主役、林芙美子役に抜擢されました。「舞台で死んでもこの役を渡したくない」と熱い思いで挑まれていたそうですよ。
森さんの代表作となったこの舞台は、なんと2009年(当時89歳)まで続き、単独主演で最多公演回数の2017回を記録しました!上の画像は初回の「放浪記」に出演した時のものです。喜びのあまりでんぐり返しするシーンが、とても有名になりましたね。
引用元:朝日新聞デジタル、X【映像メモ】紅白歌合戦最古の記録映像「第13回NHK紅白歌合戦」(1)より…当日の東京宝塚劇場、出演者一覧(アルファベット順!)白組司会宮田輝、紅組司会森光子… pic.twitter.com/9Ip0VhYdEP
— キネコ (@kinekoV) February 23, 2017
森光子さんは、1962年(当時42歳)の時、第13回「NHK紅白歌合戦」の司会に抜擢されました。森さんにとって初めての司会にもかかわらず、バラエティ番組などの経験を生かして大活躍し、司会者としても認められました。
そのまま翌年も出演予定でしたが、スケジュールの都合で出られませんでした。ですが、その後の1978年(当時58歳)の第29回、1984年(当時64歳)の第35回にも司会を務められましたね。
上の画像は第13回「NHK紅白歌合戦」の時のものです。この時初めて「NHK紅白歌合戦」で視聴率の調査が行われましたが80.4%の高視聴率となり、この年から年末の定番番組となりました。
引用元:Facebook、タケヤみそ
森光子さんは、1968年(当時48歳)のころから、みそ醸造会社「竹屋」の看板商品「タケヤみそ」のCMを40年間務められました。あの有名な「ひと味ちがいます」のキャッチフレーズは、この時に生まれました。
「竹屋」の藤森郁男社長は、「大女優なのにとても気さくな人柄で、家族のような親近感があった」と思い出を語られています。森さんの温かな雰囲気が感じられますよね。
上の画像は「タケヤみそ」のCMのものです。「CM撮影は湯気が必要なのに森さんが猫舌ですすれなくて…」と藤森社長が撮影時の森さんのかわいらしいエピソードをお話しされていました。

このころの森光子さんはどんな役が多かったのかな?

「天国の父ちゃんこんにちは」「時間ですよ」「おふくろの味」「銀座わが町」「かくれんぼ」など、たくさんの作品でお母さん役をされていたみたいよ。「日本のお母さん」と呼ばれるようになった所以だね!
50代(1970年~1980年)
引用元:ORICON NEWS、スポニチ
森光子さんは、1974年(当時54歳)から1988年(当時68歳)までの14年間、フジテレビのワイドショー「3時のあなた」で司会を務められました。初回の放送は縁が深い美空ひばりさんがゲストで登場されました。
この大役に森さんは「知識の浅さが露呈するのでは」と心配されていたそうですが、まっすぐな人柄とユーモアのセンスで大人気の司会者になられました。
この番組では、ロッキード事件で実刑判決を受けていた田中角栄元首相とも対談されました。田中角栄元首相は対談後、「取材を受けるとだいたいが、嫌がることや、怒らせることをわざと聞いてくるが、あなたは、実に誠実で真摯で、本当に感激した」と頭を下げられたそうです。森さんの人となりは多くの人に愛される理由の1つですよね。
上の画像は1980年(当時60歳)、「3時のあなた」で司会をされている時のものです。加藤茶さん、志村けんさん、大橋巨泉さんなどお馴染みの芸人さんとも共演されていましたよ。
引用元:HOMINIS、TBSチャンネル
森光子さんは、1975年(当時55歳)の時に、TBSのホームコメディドラマ「花吹雪はしご一家」で主役の5人の子どもをもつ未亡人、江戸松子役で出演されました。
この時、次男の銀二役を西城秀樹さんが務められ、親交が深まりました。仕事のことやプライベートな恋愛のことも相談していて、森さんを「東京のお母さん」と呼んでいたそうです。森さんが慕われていたのが伝わりますね。
上の画像は「花吹雪はしご一家」のワンシーンです。最高視聴率26.4%を記録するヒット作になりました。
引用元:スポニチ、朝日新聞デジタル
森光子さんは、1970年(当時50歳)の時にTBSのホームドラマ「時間ですよ」で主役の泉初子を演じました。銭湯を舞台にしたこのドラマは、1965年に単発で放送され、1970年にはシリーズ化して1990年まで続いた人気シリーズです。
当時、森光子さんは「後世に名が残る女優というよりも、現在たくさんの人に愛される女優になりたいと思ってます」とお話しされていました。その通りにたくさんの人に愛されていますよね。
上の画像は「時間ですよ」のワンシーンで、写真右側の堺正章さんは従業員の役で出演されていました。のちに森さんのことを「人に格をつけることなく、自分に対しても格をつけさせることを極力避け、スタッフやキャストみんなと同じ高さでいようと努められた」と語られています。

森光子さんは「コピー機」と呼ばれるほどセリフを覚えるのが早かったらしいけど、どうやって覚えていたんだろう?

紙に書いて覚えるタイプだったらしいわよ。三味線を聴きながら覚えていたんですって!とても優雅よね。
60代以上(1980年~2012年)
引用元:デイリー、ORICON NEWS
60代以降も数多くの作品に出演されてきた森光子さん。1992年(当時72歳)の時に足首の治療をしたのをきっかけに、毎日朝晩75回のスクワットとエアロバイク20分が日課になったそうです。
「いつまでも舞台に立ち続けたいから」と健康管理に力を入れていた森さん。
食事にも気を使われていて「好きなお肉を中心に、野菜を意識的に食べるようにしている」とのことです。卵も毎朝食べていたそうですよ。「長く続けるために大切なことは、このあたりでいいだろうと手を抜かない」と努力を続けられました。
上の画像は森光子さんが89歳の時にスクワットを披露した時のものです。「なにごとも手を抜いた瞬間から坂道を転げはじめます」とお話しされていました。このストイックさ、見習いたいですよね。
引用元:時事通信、ORICON NEWS
森光子さんは、2009年1月(当時89歳)の時に、舞台「放浪記」2000回上演をきっかけに「芸能界で常に第一線で活躍し、放浪記では約半世紀にわたり主演するなど国民に夢と希望と潤いを与えた」として国民栄誉賞を受賞されました。現役で授与されるのは俳優として初めてのことだったそうです。
この受賞に森光子さんは、「バチが当たっちゃうほどの幸せ」、「夢のよう」と喜びを表現されていましたよ。
「引退なんかいたしません。表現力の豊かな女優になって、もっといい芝居を作って、ごらん頂きたい」とお話しされ生涯現役を貫かれました!
上の画像は同年7月、国民栄誉賞受賞の記者会見の時のものです。ピースサインがチャーミングですね!

数々の偉業を達成してる森光子さんだけど1番苦労したことは何だったのかな?

波乱万丈な人生を送られているのに「苦労は覚えていません。忘れちゃうんです。それが長く続ける秘けつかもしれません」と話されているみたいね。なんだかかっこいいよね!
【画像】森光子と東山紀之の関係は?死因は何だった?
森光子と東山紀之の関係は?
引用元:東スポWEB
引用元:週刊女性PRIME
森光子さんと東山紀之さんの関係には恋人だった、遺産を相続したなどの噂がありますが、東山さんははっきり否定されています。「本当の母のような存在でした」と話されていますよ。
お2人が初めて会ったのは1986年(森さん・当時66歳)、東山さんがNHK紅白歌合戦に少年隊として出演した時に「私、あなたのファンなの」と森さんが声をかけ、そこから公私共に交流が深まったそうです。
東山紀之さんと木村佳乃さんとご結婚された時は祝福コメントを出されていて「『まだまだ未熟な二人ですが、とても優しい心をもっていて、仕事に真剣に取り組む頑張り屋さんです。皆様、今後とも、お力添えをお願いいたします』……ちょっぴり花婿の母の気分です。東山さん、佳乃さん、幸せのおくりものをありがとう。」と喜びを表現されていました。

東山さんの長女が生まれたとき、森光子さんはどんな反応をしたのかな?

「立ち寄った喫茶店でかわいい赤ちゃんに出会って、思わずお母さんに『うちも生まれたんですよ!』と言ってしまいました」と話したそうよ。きっと孫が生まれたようで嬉しかったのね。
森光子の死因は何だった?
引用元:ORICON NEWS
引用元:サンスポ
森光子さんは2012年11月10日午後6時37分、92歳で亡くなりました。肺炎による心不全でした。
2012年12月7日、東京・青山葬儀所で本葬開かれました。関係者が約1000人、一般献花者が約1300人、合計約2300人と森さんを慕う多くの方が参列されました。
「『放浪記』の最後の頃に出させていただいたとき、『徹子ちゃん、好きなようにやってね。何もとらわれないでね。そうすれば私も変われるかもしれないから』。2000回になろうという時、まだ変わろうとしていらした森光子さん。」
50年以上親交の深かった黒柳徹子さんは、弔辞でそう語られていました。森さんがいつまでもお芝居に情熱を持っていたのが伝わりますね。
病室の枕元には常に『放浪記』の台本が置かれていたそうです。森さんが最期に遺した言葉は、「みなさん、一生懸命される仕事を生きてね」でした。最期まで素敵な方ですね!

森光子さんの名言はある?

たくさんあるよ!
・「あきらめてはいけない『時』を知る。」
・「不満はね、ストレスの素よ。感謝はエネルギーになるのよね」
・奪い合うと足りない。だけど、分け合えば余るから、不思議よね
他にも本当にたくさんあるよ!いつだって諦めない森さんの生き様が表れているよね。
森光子のプロフィール・受賞歴
引用元:日本経済新聞
プロフィール
- 名前:森 光子(もり みつこ)
- 本名: 村上 美津(むらかみ みつ)
- 生年月日:1920年5月9日
- 年齢:享年92歳(2012年11月10日逝去)
- 出身地:京都府
- 血液型:B型
- 趣味:麻雀
- 特技:スクワット
- 所属事務所:オフィス・モリ
受賞歴
- 1958年:第13回芸術祭奨励賞
- 1959年:大阪市民文化賞
- 1961年:「放浪記」で芸術祭文部大臣賞、第7回テアトロン賞
- 1962年:NHK「おはなはん一代記」で芸術祭奨励賞
- 1964年:「越前竹人形」で第10回テアトロン賞
- 1970年:TBS「時間ですよ」で放送作家協会賞、女性演技賞
- 1979年:「おもろい女」で芸術祭大賞、第17回ゴールデンアロー賞演劇賞
- 1981年:三木のり平潤色・演出の「放浪記」で芸術選奨文部大臣賞 第7回菊田一夫演劇大賞
- 1984年:紫綬褒章
- 1985年:日本映画テレビプロデューサー協会30周年特別賞 第36回NHK放送文化賞
- 1986年:名古屋演劇ペンクラブ賞
- 1987年:毎日放送ラジオ「松鶴恋歌」で民放祭ラジオドラマ部門最優秀作品賞 第14回放送文化基金賞
- 1990年:「放浪記」1000回で芸術祭作品賞
- 1991年:都民文化栄誉賞 第32回毎日芸術賞 第28回ゴールデンアロー賞演劇賞 第17回菊田一夫演劇賞特別賞
- 1992年:第13回松尾芸能大賞 日本赤十字社社業功労者特別表彰 勲三等瑞宝章
- 1995年:第2回読売演劇大賞優秀女優賞 第32回ゴールデンアロー賞演劇賞・大賞 「第37回輝く!日本レコード大賞」企画賞
- 1998年:第6回橋田寿賀子賞特別賞 名誉都民顕彰 文化功労者顕彰
- 1999年:平成10年度浅草芸能大賞
- 2000年:第7回読売演劇大賞最優秀女優賞・大賞 映画「川の流れのように」で第24回日本アカデミー賞主演女優賞優秀賞
- 2003年:第12回日本映画批評家大賞ゴールデン・グローリー賞
- 2004年:平成16年度名古屋演劇ペンクラブ賞
- 2005年:文化勲章 第4回朝日舞台芸術賞特別賞
- 2006年:日本アカデミー賞協会栄誉賞 エランドール賞特別賞
- 2007年:日本文化デザイン賞
- 2009年:国民栄誉賞 京都市民栄誉賞

森光子さんって麻雀が趣味なの?!

そうみたいだね!よく東山紀之さんとも打っていたそうよ!