【画像】沢田研二(ジュリー)は若い頃美形!嫁との馴れ初めは?息子の職業は?

ロックスターとして活動し俳優としても活躍を続けている沢田研二さん。

ジュリーの名で数々の名曲を生み出し、日本の女性をとりこにしてきました。

今回は沢田研二さんの若い頃を振り返り、現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!

目次

【画像】沢田研二(ジュリー)は若い頃美形!

10代(1958年~1968年)

沢田研二さん
引用元:SPICE

沢田研二さんは、1966年(当時17歳)に京都にあるジャズ喫茶「田園」でドアボーイのアルバイトをしていたときに「ザ・サンダース」に声をかけられローディ兼ボーカリストになりました。

さらにその歌声を聴いた「サリーとプレイボーイ」の岸部修三さん(後の岸部一徳さん)に「リードボーカルにならないか」と誘われ、1967年(当時17歳)の元日に「サリーとプレイボーイ」に加入、グループ名は「ファニーズ」に改めました。

「ファニーズ」は、大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」に出演した時に芸能プロデューサーの上条英男さん、芸能プロダクションのスパイダクション(現・田辺エージェンシー)、そして共演したロック歌手の内田裕也さんから声を掛けられ、それがきっかけでメンバー全員が渡辺プロダクションと契約しました。そして当時の人気番組「ザ・ヒットパレード」のプロデューサーであるすぎやまこういちさんに「ザ・タイガース」と名付けられました。

「ザ・タイガース」は1967年(当時17歳)に「僕のマリー」でデビューしました。「ザ・タイガース」の中でも端正な顔立ちで人気となった沢田研二さんは当時の10代・20代女子の憧れの存在でした。曲も爆発的な人気を誇りますが、1971年(当時21歳)に「ザ・タイガース」は解散します。

上の画像は1968年(当時19歳)、「ザ・タイガース」を題材とした映画のイメージ画像です。沢田研二さんはじめ、みなさんお若くさわやかですね。

ギモンくん

「ザ・タイガース」は何の曲で有名になったのかな?

カイケツさん

2曲目の「シーサイド・バウンド」が売上枚数40万枚を超える大ヒットで有名になったよ。

20代(1968年~1978年)

沢田研二さん
引用元:スポニチ

沢田研二さんは、「ザ・タイガース」解散後、1971年(当時21歳)にバンド「PYG」に参加しました。当時人気だったグループの「ザ・スパイダース」の井上堯之さんと大野克夫さん「ザ・テンプターズ」から萩原健一さん、大口広司さん「ザ・タイガース」からは沢田研二さんと岸部修三さんというインパクトのある面々の集まりでできたこのグループはニューロックを目指すバンドとなりました。

ただ、この頃の日本にはあまりロックに馴染みもなく、「商売主義」などと言われコンサートでは石、トマトや空き缶を投げつけられることもあったそうです。ボーカルだった沢田研二さんと萩原健一さんのファンがお互いにぶつかることもあり、客足はあまり伸びなかったそうです。

上の画像は「PYG」を結成した時のものです。沢田研二さんは眼鏡も似合っていますね。

沢田研二さん
引用元:TBS

沢田研二さんは、1975年(当時27歳)の時に、TBSドラマ「悪魔のようなあいつ」で主演を務めました。これは沢田研二さんと仕事がしたいテレビプロデューサーの久世光彦さんが持ち込んだ企画で「三億円事件」をモチーフに作られた作品です。挿入歌「時の過ぎゆくままに」も沢田研二さんが歌い、オリコンチャート5週連続1位、シングルセールスが90万枚と自身のソロ曲としては最大のヒット曲となりました。

上の画像は1975年(当時27歳)、「悪魔のようなあいつ」のワンシーンです。神妙な面持ちの沢田研二さんも味があってかっこいいですね。

沢田研二さん
引用元:音楽ナタリー

沢田研二さんは、1971年(当時24歳)の時にソロデビューをし、1977年5月(当時28歳)の時に、「勝手にしやがれ」を発売して大ヒットとなりました。この曲で第19回レコード大賞を受賞しました。受賞した時には萩原健一さんや岸部一徳さんら、ザ・タイガースやPYG時代の仲間がかけつけ、この時の視聴率はレコード大賞の最高視聴率50.8%を記録しました。

大賞を受賞しコメントを求められた沢田研二さんは、涙を浮かべながら「嬉しい!」の一言で仲間と抱き合っていました。

上の画像は1977年(当時29歳)、レコード大賞を受賞した時のものです。沢田研二さんのカリスマのオーラが漂っています。

ギモンくん

沢田研二さんがソロデビューした後、「PYG」としての活動はあったのかな?

カイケツさん

沢田研二さんと同時期に萩原健一さんも俳優活動を本格化してグループとしての活動はなくなったみたい。萩原健一さん以外のメンバーでロックバンド「井上堯之バンド」として活動したよ。

30代(1978年~1988年)

沢田研二さん
引用元:週刊女性PRIME

沢田研二さんは、1978年(当時30歳)に発売した「LOVE(抱きしめたい)」が第20回レコード大賞の最優秀歌唱賞を受賞しました。前年は大賞を受賞しており、二年連続の受賞となりました。この年のレコード大賞は「ピンクレディー」の「UFO」で、沢田研二さんは決選投票までいきましたが残念ながら大賞を逃してしまいました。当時のことを「悔しい」と語るファンも少なくなかったそうです。

ただ、同年の紅白歌合戦ではロック歌手としては初の大トリをつとめたり、1978年のテレビ等の出演は700本以上にものぼり大活躍となったことは間違いありません。

上の画像は1978年(当時30歳)、レコード大賞最優秀歌唱賞受賞の時のものです。嬉しいながらも悔しさも見えるような、そんな表情です。

沢田研二さん
引用元:朝日新聞

沢田研二さんは、1977年頃からヴィジュアル路線に変更していきました。1980年(当時31)に発売した「TOKIO」では全身に電飾をまとい、スタジオ全体が隠れるくらいのパラシュートを背負って歌う奇抜な演出が話題となりました。

後年のインタビューで沢田研二さんは、奇抜な演出を「あくまでテレビの演出で割り切ってやっていた」とお話しされており、素の沢田研二さんとはかけ離れていることがうかがえます。内田裕也さんの「マイナーなことをメジャーなところでやるのがいいんだ」という話をよく覚えているそうで影響があったのかもしれません。

上の画像は1980年(当時30歳)、話題の「TOKIO」を歌っている時のものです。とても派手でインパクトがありますね。

ギモンくん

沢田研二さんは、他にどういった賞を受賞しているの?

カイケツさん

1977年~1983年まで毎年レコード大賞の賞(大賞、最優秀歌唱賞、金賞)を受賞していたよ。他には1980年に「日本歌謡大賞 放送音楽賞」、1983年「日本有線大賞 上期特別賞」などがあるよ!

40代以上(1988年~)

沢田研二さん
引用元:Real Sound

沢田研二さんは、2013年(当時65歳)の時に、「ザ・タイガース」を再結成し全国ツアーコンサートを開催しました。それまでにも沢田研二さんのコンサートで一部のメンバーがかけつけることはありましたが、6人そろっては44年ぶりとなりました。

この時沢田研二さんは、「いつまでたっても、6人でザ・タイガースだと思っております」とお話しされており、6人のことを大切に思っていることがうかがえます。

上の画像は2013年12月(当時65歳)の「ザ・タイガース」全国ツアー最終日の時のものです。病気療養中だった岸部四郎さんに沢田研二さんをはじめとするメンバーが寄り添っているのが印象的です。

沢田研二さん
引用元:松竹

沢田研二さんは、2021年(当時73歳)の時に、松竹映画「キネマの神様」に俳優・菅田将暉さんと主演を務めました。この映画は元々コメディアンの志村けんさんが主演を務める予定でしたが2020年に急逝してしまい、沢田研二さんがその意思を継いで主人公のゴウ役を担いました。

沢田研二さんと志村けんさんはかつて同じ事務所に所属しており先輩後輩の関係でした。沢田研二さんは志村さんの出演していたバラエティー番組「8時だョ!全員集合」に出演したことがあり、志村さんがつくったコントで共演を重ねてきたそうです。そんな2人の関係は50年も続き、盟友とも言える間柄となったそうです。

沢田研二さんは、オファーされたときに「志村さんのお気持ちを抱き締め、やり遂げる覚悟です」とお話しされていました。

上の画像は「キネマの神様」の公式サイトのものです。表情から心を込めて演技されているんだなと感じます。

ギモンくん

沢田研二さんは、映画の出演も多いの?

カイケツさん

2002年「カタクリ家の幸福」、2006年「幸せのスイッチ」、2022年には「土を喰らう十二ヵ月」に出演しているよ!

沢田研二さんが所属する”ANIMA”には他に誰が所属してる?

引用元:スポニチ

沢田研二さんの所属するANIMAには、他の俳優さんが所属している情報はありませんでした。親会社は妻である田中裕子さんが代表を務めるANIMA出版だそうです。

【画像】沢田研二と嫁の馴れ初めは?息子の職業は?

沢田研二と嫁の馴れ初めは?

沢田研二さん
引用元:週刊女性

沢田研二さんは1975年6月(当時26歳)、当時絶大な人気を誇っていた姉妹ユニット「ザ・ピーナッツ」の姉、伊藤エミさんと7年間の交際を経て結婚しました。2人は同年の7月20日に比叡山延暦寺で結婚式を挙げ、直後に比叡山で行われた沢田研二さんのコンサートにも2人で舞台に上がり、ファンに結婚報告を行いました。上の画像は1975年(当時26歳)に行った婚約会見のものです。

2人は1987年1月(当時38歳)に離婚します。

引用元:文春オンライン

沢田研二さんは1987年(当時38歳)に伊藤エミさんと離婚する前、1982年(当時34歳)に「男はつらいよ 花も嵐も寅次郎」での共演をきっかけに現在の妻である田中裕子さんと不倫関係にあったそうです。田中裕子さんのマンションに通う沢田研二さんが通うことが多くあり、1983年に不倫が発覚しました。

その結果、伊藤エミさんとは1986年に別居、1987年1月に離婚が成立しました。離婚の慰謝料は当時の芸能人カップルとしては最大額の18億1,800万円となったそうです。

沢田研二さんと田中裕子さんはその後も交際を続け、1989年(当時41歳)に再婚します。上の画像は1989年11月に出雲大社で結婚式を行った時のものです。2人とも和装がとてもお似合いです。

後年、沢田研二さんは再婚した時に「二度と女の人を悲しませたくないと思った」とお話しされています。

ギモンくん

2025年現在、沢田研二さんと田中裕子さんは仲良し夫婦なのかな?

カイケツさん

沢田研二さんは妻の田中裕子さんのことを聞かれたときに、「一番の理解者に違いないなくて、むしろ同志に近いかな」とお話ししているよ!とても仲が良さそうだね。

沢田研二の息子の職業は?

引用元:NEWSポストセブン

沢田研二さんと現在の妻である田中裕子さんとの間にはお子さんはいませんが、元妻の姉妹ユニット「ザ・ピーナッツ」の妹の伊藤エミさんとの間に1979年3月に生まれた1人息子がいます。名前は「澤田一人(さわだかずと)さん」(2025年時点で46歳)です。現在は音楽関係の仕事に就いているそうです。

沢田研二さんは前述の田中裕子さんとの不倫が原因で伊藤エミさんと離婚しましたが、伊藤エミさんはお子さんの名前については沢田さんの本名の「澤田」姓を名乗る事を希望しました。1987年(当時38歳)に離婚して以来、沢田研二さんと一人さんは会うこともなく25年が経過しましたが、2013年1月(当時64歳)の時に行った「ザ・タイガース」のコンサートで沢田研二さんと一人さんは再会を果たしました。

澤田一人さんは再会する前にも周囲に「親父はすごい」と話していたそうで、音楽に生きる沢田研二さんのことを尊敬しているのかもしれません。再会した時には同じ「音楽」を仕事に持つ者として盛り上がったかもしれませんね。

ギモンくん

沢田研二さんと澤田一人さんは、どうして再会することになったの?

カイケツさん

澤田一人さんが、亡くなった元妻の伊藤エミさんが書いた沢田研二さんあての手紙を届けに来たそうだよ。

沢田研二さんがデビューした1967年はこんな年だった!

引用元:タカラトミースポニチ餃子の王将

沢田研二さんがデビューした1967年は、リカちゃん人形発売阪急、パリーグで初優勝餃子の王将1号店開店などの出来事があり、話題となりました。

また、この年の流行語には、「アングラ」「ハプニング」「核家族」がありました。

沢田研二のプロフィール・SNS

引用元:NHK

プロフィール

  • 名前:沢田研二(さわだけんじ)
  • 本名: 澤田研二(さわだけんじ)
  • 生年月日:1948年6月25日
  • 年齢:76歳(2025年3月現在)
  • 出身地:京都府
  • 血液型:A型
  • 趣味:歌・ファッション
  • 所属事務所:ANIMA

SNS

  • 著書・関連書籍
    1977年:『ザ・スター沢田研二』
    1977年:『沢田研二写真集 僕の中の男たち』
    1977年:『ジョイナス=ブックス 沢田研二』
    1980年:『水の皮膚』
    1985年:『我が名は、ジュリー』
    2002年:『Paradis,Paradis』
    2022年:『JULIE by TAKEJI HAYAKAWA – 早川タケジによる沢田研二』
ギモンくん

沢田研二さんは漢字は違うけど本名なんだね?

カイケツさん

デビューするときに内田裕也さんからは「沢ノ井謙」という芸名をすすめられたけど、「本名でやりたい」と強い意志だったみたいだよ!

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