直木賞作家でありながら、その個性的なファッションと、独自の視点から発する飾らない言葉で、未だに人々の関心を集め続けている志茂田景樹さん。
その活動の裏で、悲しい過去と直木賞作家になるまでの苦労、要介護4の車椅子生活など様々な事がありました。
今回は志茂田景樹さんの若い頃を振り返り、現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!
【画像】志茂田景樹は若い頃から奇抜?
20代・30代(1960年~1980年)
引用元:X自宅の仕事部屋の書棚に20歳で戦死した兄の出征直前の写真が写真立てに収まって置かれている。とても穏やかな表情だ。僕は81歳になるが、兄は20歳のままだ。気持ちが凹んだとき、20歳の兄を見る。「大丈夫だよ」といつも声をかけてくれる。61歳年下の兄の声を聞くとき、いちばんほっとする。 pic.twitter.com/Wm0kV7yE7N
— 志茂田景樹 (@kagekineko) September 11, 2021
引用元:X5歳の僕に出征前の20歳の兄が結露したガラス窓にカタカナを書いて教えてくれた。戦地の兄にカタカナでハガキを書いたら返事がきた。やがて兄は戦死した。その返事のハガキを見る度に兄の心と僕の心は1つになる。74年前に身は滅んでもその心は滅びずに折りに触れ息づく。これが生きるということなのか。 pic.twitter.com/1bgaUClrvl
— 志茂田景樹 (@kagekineko) February 24, 2019
上の画像1枚目は、志茂田さんが5歳の時に亡くなった15歳年上のお兄さんの写真、2枚目の画像は、お兄さんが志茂田さんへ書いた手紙です。顔の雰囲気が志茂田さんにどことなく似ていますね。
手紙がカタカナだらけなのは、この手紙が送られてくる前に、志茂田さんがお兄さんに教えてもらった、覚えたばかりのカタカナで手紙を送っていたからだそうです。それを分かっているお兄さんが、志茂田さんが読めるように全てカタカナで書いてくれ、住所にもカタカナをふって読めるようにしてくれているのです。
わずか5年という短い時間しか一緒にいられなかった2人ですが、この手紙からは、お兄さんの志茂田さんに対する愛情がとても伝わってきます。この投稿を見た人たちからは「涙が止まらない」「胸が詰まって言葉にならない」と心を揺さぶられたコメントが数多く寄せられました。
引用元:FREENANCE
志茂田景樹さんは、1940年3月25日、静岡県伊東市で生まれました。両親と姉、兄、志茂田さんの5人家族だったのですが、志茂田さんが5歳の時、当時20歳だったお兄さんが旧満州の荒野で戦死したという悲しい出来事がありました。
そんな志茂田さんは、東京都立国立高等学校を卒業、中央大学法学部政治学科を6年かけて卒業し、その後は20種類以上の職を転々としていました。そして保健調査員だった28歳の頃、出張で地方に行く際に移動時間をほぼ読書に費やしていた事がきっかけとなり、作家を志すようになります。
29歳になり、体調を崩し長期入院した事をきっかけに短編小説の執筆を開始、それから何度も作品を応募し続けますが受賞には至りませんでした。
なかなか上手くいかず伸び悩んでいた時、メディア関係の知人から「ストーリーの面白さよりも登場人物を重視するといい」というアドバイスを受けます。
そのアドバイスを元に書き上げた「やっとこ探偵」で、1976年(36歳)に小説現代新人賞を受賞、ついにプロデビューを果たしたのです。
上の画像は1960年代、志茂田さん20代頃と思われる写真です。サラリーマン時代という事ですが、この頃は、目に入った仕事を適当にやりに行くといった自由奔放なサラリーマンだったそうですよ。
引用元:FREENANCE
上の画像は、1970年代、志茂田さん30代頃の時の写真です。この頃は、会社員を辞め、フリーライターとして活動していた時です。
フリーライターとして女性自身(光文社)の記者をしたり、週間TVガイドのアンカーライターをしたり、人気アイドルの記事を担当したこともあったそうで、この頃は収入も順調に増えていったんだそうです。
その後、1976年(36歳)に「やっとこ探偵」でプロデビューするのですが、執筆には3年のつもりが7年もかかってしまったそうです。しかし受賞後は順調で、デビューして1年後にはライターを辞めて作家専業となったのだとか。
一時期、フリーライターを続けていれば仕事には困らないと思い「もう小説を書いて応募するのをやめる」と奥様に言った事があったそうです。
すると、今まで何も言わなかった奥様が「私は続けてほしい」と言ってくれたんだそう。「妻は自分をかってくれているんだ」ととても嬉しく思い、その言葉があった事で、直木賞を受賞するまでの作家になれたという事でしょうね。

妻の光子さんは献身的に志茂田さんを支える素晴らしい人だよね。
2人の馴れ初めはどんなだったのかな?

そうだね。お2人の出会いは、志茂田さんが会社員をしていた時に同じ職場で働いていた同僚だったそうだよ。
初めて家に光子さんが来た時に、何もない家に驚いていた光子さんに志茂田さんは「今は何にもないけどさ、この畳の下には僕たちの宝が埋まっているんだよ。いつか必ず掘り出してみせる」と伝えて、その翌年お2人は結婚したんだって。なんだか素敵な話だよね。
40代以上(1980年~)
引用元:kageki
上の画像は1980年、志茂田さん40歳の時に書いた著書「黄色い牙」です。志茂田さんはこの作品で、第83回直木賞を受賞しました。30代前半から直木賞を目指して奮闘していた志茂田さんですが、10年を経て念願の直木賞を受賞したのです。
志茂田さんは、この直木賞は親孝行と語っているのですが、それにはエピソードがありました。志茂田さんの父親が直腸癌にかかってしまい、余命3か月と告げられたのです。失意の中、志茂田さんは、父に捧げる父のための小説を書こうと思い、「黄色い牙」を書き下ろしました。
この話は当時国鉄で働いていた父親が単身赴任をしていて、その時の話を志茂田さんが聞き、それを小説化したという作品なのです。
本作で直木賞を受賞したことを受けて、寝たきりだった父親が、自力で新聞を手に志茂田さんの部屋までやってきて「おい、おまえのことが新聞に出ているぞ!」と喜びをあらわに叫んだそうです。
志茂田さんにとって直木賞は親孝行が、まさに叶った瞬間だった事でしょう。
『制覇』の裏表紙にある志茂田景樹の写真。かっこいいな。 pic.twitter.com/VS5IJS80nD
— 鈴木智彦/SUZUKI TOMOHIKO (@yonakiishi) June 30, 2020
上の画像は1982年(42歳)に発売された著書「制覇」の表紙裏に載っていた志茂田さんの写真です。おそらく年代は30〜40代くらいかと思われます。普段の志茂田さんのイメージとは違い、ワイルドな雰囲気がとてもかっこいいですよね。
この小説は1982年に映画化され、中島貞夫さん監督の下、三船敏郎さんや岡田茉莉子さん、菅原文太さんら豪華俳優陣が出演しました。
志茂田さんの小説は、これまでに3作映画化されているそうですが、制作にあたって志茂田さんから監督に意見したり揉めたりする事はないそうです。その裏には志茂田さんの小説と映画に対する視点の違いがあったのです。
学生時代に映画をたくさん見ていた志茂田さんは、今まで読んできた小説を映画化したらどうなるかと考えみた時期があったそうです。
長らく考えた結果、忠実に映画化する事なんて無理で、それの反対も当然無理だという結論に至ったそうです。そもそも小説と映画は全く別物なんだから、同じになる事なんてない、だからそういう視点で見ないといけないと思い、そういう考えから同じ物として捉えないようになったそうですよ。
また、ジャンルを問わず多種多様な作品を世に送り出し続けている志茂田さんですが、執筆活動の他に奇抜なファッションでも注目され、1980年代後半には、山本寛斎のファッションショーでモデルを務めたり、自身のブランド「KIBA」を立ち上げたりしていたほか、タレント活動もしていました。
引用元:X笑っていいとも!
— ミッシェル系(仮) (@ROCKNROOOOOOOLL) February 21, 2020
甲本ヒロト × 志茂田景樹
『 リンダリンダ 』 pic.twitter.com/wxyL6a1Cx7
上の画像は1991年頃、志茂田さん50代前半だと思われますが、「笑っていいとも!」にレギュラー出演していた時のものです。ブルーハーツの甲本ヒロトさんと一緒に、名曲「リンダリンダ」を熱唱していました。
歌唱力はさておき、志茂田さんの一生懸命歌う姿は多くの人の心を勇気づけた事でしょう。感想を求められた甲本ヒロトさんは「素晴らしいです!個性的で良いと思います」とコメントをしたのです。
周りに惑わされずに、自分がしたい事を一生懸命にやる姿は、志茂田さんも甲本ヒロトさんも通じるものがあるのかもしれませんね。
引用元:YouTube
上の動画は1990年代、志茂田さんは50代半ばくらいだと思われますが、日本サンガリア「サンガリア杜仲茶」のCMに出演した時のものです。
CMは違うバージョンもあるのですが、どちらも奇抜なヘアとファッションで、視聴者はお茶よりも志茂田さんに目がいったのは言うまでもありません。志茂田さんはこれがCM初出演だったそうですよ。
引用元:YouTube
上の動画は2014年1月26日、志茂田さん74歳ころに、長崎で行われた人権シンポジウムに出演した時の動画です。多様性について自身の目線から言葉を投げかける志茂田さんですが、そこには中学の時にいじめにあったという過去がありました。
志茂田さんは「昔は3世代同居で、祖父、祖母からおだやかに叱られたことで、愛情を感じながらルールを教えられた。それが核家族化になってきたことで、いまの陰湿なイジメを生んでいるのかもしれない」と分析、「ハンデがあっても乗り越えて健康に生きられる社会、子どもの夢を育むことができる人権の根付いた社会にしていくことが大切」と語っていました。
引用元:YouTube
上の動画は2017年、志茂田さん77歳ころ、ジュンク堂近鉄アベノハルカス店で行われた絵本の読み聞かせイベントに出席した時のものです。志茂田さんは長きにわたり色々な場所で読み聞かせを行なってきました。
この時は、絵本「ばっちゃのコグマ」という絵本の読み聞かせを行った志茂田さんですが、読み聞かせが終わると来場した保護者に「3歳までだったら膝に乗せて読み聞かせをすると、お母さんの心と子供の心の間に架け橋が生まれる。架け橋を通ってお母さんの愛情が伝わる」と呼び掛け、読み聞かせの大切さを伝えていました。
また同年、リウマチを発症し、その後、車椅子生活を余儀なくされた志茂田さんですが、妻の光子さんに支えられながら、作家活動の他、本の読み聞かせやSNSでの発信、推し活など、忙しいながらも充実した生活を送っています。
引用元:abematimes
上の画像は2019年、志茂田さんが79歳の頃の写真です。りゅうちぇるがMCを務める番組「りゅうちぇる×ちゃんねる」に、りゅうちぇるが憧れの人として公言している志茂田さんと林家ペー、パー子夫妻が出演した時のものです。
この時に、志茂田さんはりゅうちぇるの全身コーデを希望し、番組内で披露しました。着こなしを褒められたりゅうちぇるは「わー!嬉しい」と歓声を上げ、憧れの志茂田さんからかけられた称賛の言葉に、感無量の様子でした。
これを見た視聴者からは「画面が派手、色が濃い、りゅうちぇるが一番地味」など多くの反響が寄せられたそうです。
引用元:exciteニュース
上の画像は2023年3月の時のものです。志茂田さん83歳ころ、自宅からリモートで取材を受けた時の画像です。
推し活などの話をしているのですが、志茂田さんは80歳を過ぎてからアイドルにハマり、推し活をする様になったそうです。
それから志茂田さんのSNSにはジャニーズに関わるワードがたくさん出てきており、それに反応する様に同じアイドルのファンからコメントが来るようになったそうです。
そんな推し活をしているうちに、志茂田さんのフォロワーが激増し、今ではアイドルのファン達との交流が志茂田さんの楽しみでもあるそうですよ。

志茂田さんといえば奇抜で個性的なファッションだけど、いつからそういうファッションをするようになったのかな?

きっかけは、48歳くらいのとき、アパレルに勤めている女性からニューヨーク土産ということでもらった一足の女物のタイツがきっかけなんだって。
最初は人目が気になってしまったそうだけど、開きなおると、人からジロジロ見られるのにも慣れて、むしろ心地よく感じるようになったそうだよ。それが今の志茂田さんスタイルが生まれたきっかけなんだって。
志茂田景樹さんが所属するBBE(ビッグブッキングエンターテインメント)には他に誰が所属してる?
引用元:BBE
志茂田景樹さんの所属するBBEには、電撃ネットワークさん、中村ゆうじさんや城後光義さんなどが所属しています。
【画像】志茂田景樹の息子の職業は?現在は車椅子生活?
志茂田景樹の息子の職業は?
引用元:東スポWEB
引用元:下田ひろき
志茂田景樹さんには、息子さんが2人いらっしゃいます。
長男は下田順洋さんという方で、「YORIZO」名義でカメラマンをしているそうです。過去に父である志茂田景樹さんの女性関係で許せないことがあり、家を飛び出して単身アメリカに渡り、7年間帰ってこなかった事があったそうです。
順洋さん自体はメディアに出てこない方なので、詳しい親子関係は分かりませんが、今現在(2025年2月)は日本に帰ってきていて、実家の近くで1人暮らしをているそうですよ。時間が経って関係も修復したのかもしれませんね。
そして、上の画像1枚目と2枚目に写っている方が、次男の下田大気さんです。経歴は波瀾万丈で、18歳の時に父からの援助で健康食品会社を設立するも、すぐに倒産してしまいます。その後も俳優デビューや新たな会社経営などに着手しますが、どれも続かず借金で自己破産してしまいました。
自分の行いを反省した大気さんは、2009年にタクシー会社に就職、入社1ヶ月でトップの売り上げを達成し、半年間キープ、カリスマタクシー運転手としてメディアにも取り上げられました。その後タクシーのコンサル事業でも成功し、著書も出版しています。
2015年には武蔵野市議会議員選挙に出馬し、見事当選しました。
2019年2期目、2023年3期目の選挙でも当選、現在(2025年2月)は会派に属さない無所属の議員として精力的に活動しています。その傍、自分の原点とも言えるタクシー運転手の仕事も続けていて、今後の政策に活かしていきたいと頑張っているそうですよ。

大気さんはスラっとしていて、スタイルがいいよね。父の志茂田さんも未だに体型を維持しているけど、遺伝かな。

そうなの。志茂田さんの身長は178センチで、平均と比べて高い方ではあるけど、長男は191センチ、次男は185センチと、息子さん2人とも志茂田さんより背が高いの。
奥さんもスラっとしている方だけど身長は平均くらいだから、志茂田さんは何故2人ともこんなに背が高くなったのか未だに不思議みたいだよ。
志茂田景樹は現在車椅子生活?
引用元:Rakutenブックス
引用元:デイリー新潮
上の画像1枚目は2023年(83歳)に発売された、直木賞作家志茂田景樹が放つ渾身のエッセイ「生きる力 83歳 車いすからのメッセージ」、下の画像2枚目は2024年(84歳)、取材の際投稿された、妻の光子さんが撮った1枚です。
志茂田景樹さんは2017年春、77歳の時に関節リウマチを発症しました。痛みに耐えながらも、それまで通りテレビ、ラジオ、子供達への読み聞かせなどをこなして過ごしていた志茂田さんですが、療養のつもりで行った温泉で転倒し、悪化してしまいます。
そして、転倒から2日ほど経過したある日、激痛で起き上がれなくなり、そのまま救急車で病院へ運ばれ、腰椎圧迫骨折と診断されます。療養により骨折は完治しますが、その間にリウマチが悪化、そのまま車椅子ユーザーとなったのです。
当時は要介護3と認定されていた志茂田さんですが、2022年(83歳)には要介護4となり、介護なしでは生活が困難な状態になってしまいました。
体を動かすと激痛が走る為、車いすの車輪を手で回すことはできず、通院などの外出には介護タクシーと妻など介助者が必要でした。
また、パソコンは1本指でキーを叩いているため、音声入力システムを併用して原稿執筆やSNSへの発信を行うなど、日常生活において介護が必要な場面が多々あるそうです。
しかし、志茂田さんは車椅子ユーザーになってからもなお精力的に活動しており、「世界が狭まったと感じることはなく、むしろ広がった」と前向きな姿勢を見せ続けてくれていて、その姿に勇気づけられる人達も多くいるそうです。
これからも元気で前向きな志茂田さんを発信し続けてもらいたいですね。

志茂田さんは車椅子生活になってから推し活にハマっているそうだけど、誰の推しなんだろう?

80歳を過ぎてから、アイドルグループ「Travis Japan」にハマったそうで、自身のSNSで推し活を発信しているんだよね。だからTravis Japanのファン達がコメントしてくる事もあって、SNSで度々交流しているみたいだよ。
それもあってか志茂田さんのSNSのフォロワー数はなんと40万人超え!推し活での交流も志茂田さんの元気の素になっているのかもしれないね。
志茂田景樹さんがデビューした1976年はこんな年だった!
引用元:Dream News、週刊アスキー、日刊ゲンダイ
志茂田景樹さんがデビューした1976年は、「およげ!たいやきくんのヒット」、「アップルコンピューター創業」、「田中角栄逮捕」などの出来事があり、話題となりました。
また、この年の流行語は、ロッキード事件の証人喚問で証人たちが度々口にした言葉「記憶にございません」でした。
志茂田景樹のプロフィール・SNS
引用元:デイリー新潮
プロフィール
- 名前:志茂田 景樹(しもだ かげき)
- 本名: 下田 忠男(しもだ ただお)
- 生年月日:1940年3月25日
- 年齢:85歳(2025年3月現在)
- 出身地:静岡県
- 血液型:A型
- 趣味:料理、絵画
- 特技:絵本の読み聞かせ デザイン
- 所属事務所:BBE(ビッグブッキングエンターテインメント)
SNS
あなたがそれを人に言わなければ、
— 志茂田景樹 (@kagekineko) February 4, 2025
何の問題も起きなかった。
あなたが蒔いた種で生まれた問題は、
あなたが解決するしかない。
- オフィシャルサイト URL:https://www.kageki.jp

- 公式ブログ URL:https://ameblo.jp/kage315ki/


志茂田景樹さんは、長い間、色々な場所で読み聞かせの講演しているそうだけど、始めるきっかけはなんだったんだろう?

きっかけは、書店などで自身のサイン会を開催するたび、子どもが多く集まった事なんだって。
「僕自身、幼いころ母からたくさんの読み聞かせを受けた。その記憶が、心地よいものとしてずっと頭に刻まれている」とのこと。たくさんの子供達に、読み聞かせの心地よさを感じてもらい、心の知能指数を高めて欲しいという思いがあるみたいだよ。