ロックバンドGLAYのボーカリストとして活躍を続けているTERUさん。
絵を描くことが得意で、2度の個展も開催してきました。
今回はTERUさんの若い頃を振り返り、現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!
【画像】GLAY TERUは若い頃イケメン!
小学生・10代(1977年〜1991年)
引用元:Instagram
1983年(当時12歳)TERUさんは小学校6年生の時、転校してきたTAKUROさんと出会います。この頃はまだ音楽活動よりも、野球やサッカーに夢中なスポーツ少年でした。
音楽を始めるきっかけとなったのは、1987年(当時16歳)函館商業高校の文化祭『北辰祭』のバンドに、小中学生が同じだったサッカー部の先輩から声をかけられたことです。
TERUさんはドラムを引き受け、知り合いからドラムセットを2万円で買い練習を開始しました。
中学時代は野球、高校生ではサッカー部に入っていましたが、部活を辞めて早退し、ドラムを叩く練習をするほど熱中してしまったそうです。
上の画像は小学生の頃だと思われます。お父様と同じポーズで、誇らしげな可愛らしい表情ですよね!
引用元:Instagram
1988年(当時17歳)高校では進路が分かれたTAKUROさんから誘われ、ドラマーとして『GLAY』を結成します。
コピーバンドでTERUさんがドラムを叩いていたことを噂で知り、誘ったそうです。
ボーカルが決まらない中、たまたま置き忘れられたTAKUROさんのデモテープに、TERUさんが歌を入れてみたところ、「神がかった声」とTAKUROさんは驚き、TERUさんのボーカルへの転向のきっかけになりました。
ただ、TERUさんはドラマーに戻るつもりで先輩をボーカルとして迎え入れようとしたそうですが、TAKUROさんに却下されてしまったそうです。
TAKUROさんは、「TERUは自分がボーカルではなく、ドラマーでありたかった」とお話しされており、この頃のTERUさんがどれほどドラムに熱中していたかがよくわかります。
上の画像は1990年(当時19歳)の時のものです。高校卒業と同時に、音楽での成功を夢見て上京しTAKUROさんと一緒に赤羽の印刷会社に住み込みで就職しましたが、両立が困難で試用期間の3ヵ月で退社することになってしまいました。
やんちゃな表情に少し不安そうな瞳がこの頃の心境を物語っていそうな気がします。

バンド名を『GLAY』と名付けたのには理由があるんだよね?

黒(ロック)でもなければ白(ポップ)でもないという意味で『GRAY』(灰色)
TERUさんとよく聴いていたビートルズが、バンド名を造語にしていたことから、”R”を”L”に変えて『GLAY』に。
そしてこれは地元函館の冬空の色にも掛けているそうよ。
でもね、後にTAKUROさんが「実際は響きで決めた」とお話しされているみたい。
20代(1991年〜2001年)
引用元:X XGLAYがインディーズ時代に出したデモテープがわが家に今も残っています。1989年〜1993年までの間で13本になります。 pic.twitter.com/bJWvrLNoKL
— ひかる@ラルク歴33年 (@hikaru_m2) January 15, 2017これ誰かに貰ったんだったかな…?
— m.u (@megril29) August 23, 2018
1990年のGLAY pic.twitter.com/vMqTuP9fbW
引用元:X1994年
— 清田あぬすぬ「背番号1」𝕏 (@kitigai_emilyyy) January 27, 2025
ファーストシングル「RAIN」
GLAY pic.twitter.com/nlC6Y7vIhu
1994年(当時23歳)TERUさんは、GLAYのボーカリストとしてインディーズのエクスタシーレコードからアルバム『灰とダイヤモンド』、プラチナム・レコードから1stシングル『RAIN』の同時発売でデビューしました。
メンバーは、高校卒業前に同級生のギタリストHISASHIさんが、後に高校時代の後輩バンドのベーシストJIROさんが加入しました。
GLAYのデビューにはX JAPANのYOSHIKIさんが深く関わっており、初のワンマンライブを目黒鹿鳴館で行った後、ロサンゼルスでYOSHIKIさんプロデュースによる『RAIN』をレコーディングしたそうです。
上の画像はデビュー前のデモテープや雑誌の1ページ、動画はデビューシングル『RAIN』のMVです。
デビュー当初は『ヴィジュアル系』と呼ばれ、BOØWYの影響を強く受けた世代のバンドでした。
引用元:XGLAY / HOWEVER(1997年)
— おぼかた🐸 ㌧㌧ (@Kreis_21) May 27, 2024
99曲目 ※シングルではGLAY初のミリオンセラー
※週間1位(2週連続・3週連続・通算5週、オリコン)
※1997年度年間9位(オリコン)#ぶたお名曲BOX #GLAY pic.twitter.com/dqbFXM6nVf
1996年(当時25歳)8枚目のシングル『グロリアス』はCMソングに起用されオリコントップ10入りをし、3枚目のアルバム『BELOVED』は152万枚を売り上げて初のミリオンセラーとなりました。
1997年(当時26歳)11枚目のシングル『口唇』は99万枚を売り上げてオリコン1位を獲得し、12枚目の『HOWEVER』はシングル初のミリオンセラーになり、立て続けてロングヒットになりました。
TERUさんは、『口唇』について「この曲は、GLAYの本質を知ってもらう絶好のチャンスになる一曲」とお話しされています。
「落ち着いた感じの曲が続いたことによるちょっとしたフラストレーションと、新たにみなぎるエネルギー、そして次への可能性といった、GLAYのいろいろな要素を備えた曲。これからが本当の勝負になるような気がしてます。」
上の動画は1997年発売の『HOWEVER』です。『全日本有線放送大賞』、『日本有線大賞』を受賞しました。この年はNHKの紅白歌合戦にも初出場を果たしました。
引用元:X Xちなみにですね、私が歴代のTERUさんでいちばん好きなのって考えていつも思い出すやつはこれです。
— 海空@次は東京ドームで!! (@umikasoura) June 7, 2020
この髪色と前髪のかんじ、サイコーです。
これほんと好きなの。
ちなみにB-PASSの98年12月号です。
あ、お誕生日おめでとございます。#GLAY#TERU pic.twitter.com/Q6yF7GuS0U#カッコイイGLAY 2000年 pic.twitter.com/yVsvbN7Ihq
— GLAY情報過多(シェア) (@GLAY_share_fan) March 30, 2020
TERUさんは、GLAYとして1998年(当時28歳)には『第12回日本ゴールドディスク大賞』(1年間の音楽シーンをにぎわせたアーチストに贈られるもの)でアーティスト・オブ・ザ・イヤーなどアルバム、ビデオ部門と併せて3部門受賞しました。
この年の授賞式はGLAYの独断場とも言えるほど、人気・売り上げともに日本一のバンドであることを証明しました。
『TDK presents GLAY TOUR '98 pure soul』のチケットは、販売開始から1時間ほど全国で電話がかかりにくくなるほど予約が殺到し、電話回線をパンクさせるほどの人気となりました。
この頃TERUさんは、「今、いっしょに歩いている人たちと本当に信頼しあい、これからもGLAYの伝説をつくっていけたらと思ってます」とお話しされています。
1999年(当時29歳)には幕張メッセの広大な駐車場で、日本音楽史上に残る20万人という観客を集めた『GLAY EXPO '99 SURVIVAL』を開催しました。
前代未聞の動員数に、単独アーティストで20万人を超す動員を記録した例は世界でも2回のみで、海外からもマスコミが殺到するなど世界規模の話題となったイベントでした。
上の画像は1998年と2000年のものです。美しい顔でクールさとロックの熱さを併せ持ち、この声でエネルギッシュなパフォーマンスを行うのが印象的でした。

こんなに売れていたGLAYが、1999年のの大晦日で解散が決定していたって本当?

純粋に音楽をやりたいメンバーと売りたいマネジメントサイドが対立していたんですって。
でも、お正月にメンバー4人で新年会を開いた際にTERUさんが「ソロをやろうかな」と言い出して、作曲にTAKUROさん、ギターにHISASHIさん、ベースにJIROさんを勧誘したそうなの。
結局のところ、メンバーは同じ方向を向いていることを確認して自分たちの権利を勝ち取るために戦うことを選んだそうよ。
音楽業界でもGLAYはメンバーの関係が1番良好なバンドだと言われているんですって。
30代(2001年〜2011年)
引用元:X2005のTERUちゃん。ちょっとぷくぷくしてません?ww pic.twitter.com/Zsd07zHIJw
— すかんぴん:ばんび (@720202) April 18, 2016
2001年(当時30歳)には初のテレビレギュラー番組『GLAY GLOBAL COMMUNICATION』が開始され、LIVEも精力的に開催されました。
かなりのヘヴィースモーカーだったTERUさんは、2004年(当時33歳)にHISASHIさんの勧めでタバコをやめたそうです。(そんなHISASHIさん自身は禁煙に失敗し、2025年現在もスモーカーですが。)
この頃の禁煙の効果か、がむしゃらに歌う歌い方でしゃがれたような声は少しずつ弱まっていきました。
2005年(当時34歳)には10周年記念ライブ『GLAY 10th Anniversary Year Final “WHITE ROAD”』が行われました。
上の画像は2005年の時のものです。ライブ中の振動で近隣住民の方に迷惑がかかるという理由で、大阪ドーム使用ができなくなったため、急きょ大阪ではスペシャルライブが実施されました。
TERUさんは、インテックス大阪5号館で行われたライブのラストに「何年かかるか分からないけど、GLAYはここ大阪に1つの大きな夢を残していきます。大阪ドーム、必ずやりたいと思います。何年かかってもこの夢は実現させたいと思います」とメッセージを残されました。
縦ノリと呼ばれるリズムに合わせて体を縦に動かしたり跳ねたりすることで、近隣周辺が震度1〜3度の揺れが発生してしまったそうです。
引用元:音楽ナタリー
2005年に事務所を独立したGLAYのメンバーは、個人の活動などを積極的に行い、2006年(当時35歳)にはメンバー主体で個人事務所を設立しました。著作権の問題やスタッフ一新を経て、11ヶ月ぶりにライブ活動を再開します。
2007年(当時36歳)からは2006年に財政破綻を迎え、財政再生団体に指定された夕張市をサポートする活動を行い、期間限定のコラボカフェなども開店させました。以降ほぼ毎年のように夕張市を訪れ、ふるさと納税やライブ開催などさまざまな方法で支援されています。
「歌うこと以外で何か地域に役立てることはないか」と考え、当時市内3中学校が統合されて開校したばかりの夕張中学校の運動部に、GLAYメンバーからユニフォームをプレゼントされたそうです。
財政破綻した市に部活のユニホーム代を支出する余裕はなく、新入生以外は制服さえもバラバラだった中で、揃えられたユニフォームに生徒たちは大喜びしました。
上の画像は2009年の時のものです。デビュー15周年を迎え、事務所独立後最初の大規模ライブとなった日産スタジアム公演を開催しました。総制作費15億円のステージを設置したそうです。
感謝の意を込めておもてなしをするというコンセプトを元に行われたライブでした。色々な場で支援をしたり、チャリティ活動に協賛したりするGLAYは、人の心にに寄り添うグループですよね。

TERUさんはファンの間では「天然キャラ」と言われているんだって?

「最後のファイナル」なんて言ってみたり、コンサートのメンバー紹介でHISASHIさんだけ紹介し忘れてしまったり、大阪のコンサートで「サンキュー名古屋!」と言ってしまったり、サマーソニックを「フジロック」と間違ったり。
天然ボケな発言が『TERU語録』として親しまれているそうよ。
メンバーのHISASHIさんも「ボーカリストとしては完璧に素晴らしいんですけど、思ったことが思考回路を通さずに口から出ちゃう」とお話しされているわ。
40代以上(2011年〜)
引用元:音楽ナタリー
引用元:YouTube
2016年(当時45歳)GLAYファンクラブ20周年記念ライブが行われました。
TERUさんはライブの終盤、突然「ファンクラブの30周年記念ライブはイタリアのベネチア、サンマルコ広場でやろうぜ!」と夢を叫び、メンバーとファンを驚かせました。
ベネチアの友人とサンマルコ広場を訪れた際に、その場所に立ちライブをするGLAYが見たくなったとのことで、「あの素晴らしいサン・マルコ広場をみんなに見せてあげたい!」と語りファンの大歓声に10年後の約束を交わしました。
この夢はただの口約束ではなく、TERUさんは翌年の2017年(当時46歳)単独で日本人で初めてサンマルコ広場で行われるベネチアカーニバルでアコースティックライブを成功させています。さらに2018年にはTAKUROさん、2019年にはJIROさんとライブを行い、コロナ禍もあり中止になってしまいましたが、2020年にはHISASHIさんとのライブも予定されていました。
TERUさんは毎年のようにベネチアを訪れ、約束の2026年ファンクラブ30周年記念ライブを、開催するための足掛かりを作っていました。
上の画像は2016年にベネチアでのライブを宣言した時のものと、それに向けた活動のダイジェストです。
夢だけで終わらせず、実現に向けて努力することは簡単ではありません。環境が変わってしまった2024年にもベネチアへ行き、ライブの可能性を探し「収穫あり」とお話しされていました。約束をどうにか守ろうとするTERUさんだからこそ、ファンもついて行きたくなるんでしょうね。
引用元:Instagram 万里一空特設サイト
TERUさんは絵を描くことも得意で、GLAYのマスコットキャラクターである『ズラー』はTERUさんの落書きから生まれました。2006年頃の会報で初登場してから、現在もライブグッズ化されファンに親しまれています。
幼少期から絵を描くことが好きで、小学生の時に絵画コンクールで入賞し、『北海道賞』に選ばれたことが自信になったそうです。バンド活動を始めるまでは、夢は漫画家でした。
2023年(当時52歳)には初の個展『音の可視化』を行い、会場はGLAYが高校生時代にホームグラウンドとしてライブを行っていた『あうん堂ホール』で開催されました。TERUさんには、函館をアートの街にしたいという夢があるそうです。
実は北海道には美術大学がありません。それは地域として大きな課題だと思います。
例えば、学校で美術を学んで好きになった子どもたちが、東京の美大に進学できないと夢を諦めてしまう。函館で美術教師をしている月村先生という方からも「才能のある子たちが道を閉ざされるのは本当にもったいない」と相談を受けました。
僕自身も函館には音楽スタジオを持っていますが、2年ほど前から「本格的に絵を描けるアトリエを作りたい」と計画を進めていました。そのタイミングで月村先生の話を聞いたこともあり、「いつか美大を一緒に作りませんか」と提案しました。
引用元:gooニュース
「僕自身も改めてアートを学びたいし、才能ある子どもたちの未来につながるなら、素晴らしい挑戦だと思います」と美術大学を作りたいとお話しされていました。
上の画像はTERUさんが生みの親となった『ズラー』と2度目の個展『万里一空』のものです。
2025年にはTERUさん主催の絵画展『HAKODATE ART EXHIBITION 2025 DREAMY』が無料の5人展として開催されました。
いつか、ベネチアの港町の雰囲気やビエンナーレのようなアート祭典を、函館にそのまま持ち込みたいと考えているTERUさんにとって『HAKODATE BIENNALE』へと続く第一歩になりました。
全力で地元の発展を応援しているTERUさんの郷土愛は、他の人には真似できないパワーが感じられますよね。

2025年2月に台湾で開催された台北ランタンフェスティバルに、TERUさんがデザインしたランタンが展示されたんだよね。
引用元:Instagram

このランタンの元々のテーマは函館で、台湾の人たちにもTERUさんの地元、函館を感じてほしいと雪の結晶から描き始めたんですって。
それが青森県の弘前で暮らしていた、おばあちゃんとリンゴを採って食べた記憶が思い浮かんで、りんごの木がモチーフになったそうなのね。
「困難な時代だからこそ、音楽と絵画を通して多くの人に希望を与えたい」とお話しされて、台湾と日本の未来に実りのあるタイトルにしたいと『実りを待つ木』と名付けられたそうよ。
【画像】GLAY TERUと嫁の馴れ初めは?声が変わったのはなぜ?
GLAY TERUと嫁の馴れ初めは?
引用元:日刊スポーツ スポニチ
引用元:Xフォおおおお亜美ちゃんとTERUさん!!!#過去の写真めぐり pic.twitter.com/ATKEDnhCzB
— MARIA GLAY病重症患者 (@g4lover901) July 2, 2015
2002年TERUさんはPUFFYの大貫亜美さんとの再婚を発表されました。1996年にPUFFYとしてデビューした亜美さんとは音楽番組で初共演し、1998年PUFFYの冠番組『パパパパパフィ』で再共演した際に、意気投合して交際に発展したと言われています。
1999年には『不倫報道』という形で2人の交際はスクープされてしまいました。当時TERUさんは既婚者で、妻はインディーズ時代の、まだライブの集客が10人程だった頃に応援してくれていたファンの1人だったそうです。1993年に結婚し、子供を2人授かっていました。
1998年にTERUさんから「音楽に集中したい」と切り出され、「彼の邪魔せず見守りたい」と了承した妻とは別居していたそうで、亜美さんとの交際開始が同時期だったことから『略奪』と批判が強かったそうです。
「妻とは弁護士を立てて慰謝料などの話を進めているところです。音楽活動を続けていくうえで、今はどうしても亜美ちゃんの力が必要なんです…」
TERUさんは記者に答えた通り、2000年には離婚を成立させ、2002年には正式に亜美さんと結婚されました。

お2人の間にはお子さんはいるのかな?

2003年に長女が生まれているわ。
小学校卒業の際にはTERUさんがTwitter(現X)で祝福されていたそうよ。2021年には18歳のお誕生日を亜美さんがお祝いされていたわ。
GLAY TERUの声が変わったのはなぜ?
引用元:YouTube
引用元:YouTube
2024年にデビュー30周年を迎えたロックバンドのGLAY。若い頃からハードな歌い方をするロックボーカリストは、喉を潰してしまうことも多いと言われます。
そんな中、TERUさんもファンから「声が変わった」「ストレートな声になった」「歌い方が変わった」など声の変化を指摘されています。
声が変わった原因としては、1998年ごろに行った歯科矯正、2004年に成功した禁煙、2016年に行ったポリープの摘出、2017年に行った鼻骨の手術などが挙げられているようです。
歯科矯正をすれば滑舌が良くなり、禁煙とポリープの除去で声帯や喉のケアが、鼻骨のをまっすぐにすることで鼻声が改善されると思われます。歌いやすくなったり、声域が広がり、声の伸びも良くなったようです。
そして、年齢を重ねて続けてきた今、何よりご本人が歌い方を模索し、変化させてきました。
声に関してはまだ劣化しているとは思えないし、年齢に甘えることなく、ある程度のクオリティーでライブをしたいとは強く思っています。一つの目標として80歳になってもドームでライブできるようなバンドでありたい。
ただ、歌い方は変わってきています。以前は若さもあって力を入れて精いっぱい歌っていましたが、50歳を過ぎてからはどうやってリラックスして歌うかを考えています。それは自分なりの技術の向上だと思っているんですけど、「歌声が優しくなった」と言われますね。20年前よりいい歌を歌っているという自負はあります。
引用元:朝日新聞
上の2本の動画を見比べてみるとよくわかりますが、1996年と2024年の歌い方はかなり違うようです。伸びやかで力強いハイトーンボイスが優しく甘くなったように感じられます。
「年齢を重ねるとやはり声帯は衰えていくもので、昔は地声でハイトーンが出てた曲が歌えなくなる時もくるかもしれない」突然過去の楽曲が歌えなくなったらファンを悲しませてしまうと、キー設定や歌い方を変えた理由をお話しされていました。

歌手として、これからも長く歌って、ファンに喜んでもらうために変化し続けているんだね。

歌い方に悩んでいる中、リーダーのTAKUROさんに言われた言葉があるんですって。
「TERUの自由でいいよ」「TERUが歌うことに意味があるよ」って。
年齢を重ねれば重ねるほど、“声が劣化する”という言葉が使われると思うんですけど、どんどん落ちていくのは事実なので。それでも僕は人生のなかで、ボーカリストとしてそれが悪ではなく、それも“人生の色合い”なんだろうなととらえています。
引用元:ORICON MUSIC
GLAY TERUさんがデビューした1994年はこんな年だった!
引用元:朝日新聞、時事通信ニュース、NHK
TERUさんがデビューした1994年は、「松本サリン事件」、「日本人初の女性宇宙飛行士向井千秋さんが宇宙へ」、「大江健三郎さんにノーベル文学賞」などの出来事があり、話題となりました。
また、この年流行った言葉には、宮沢りえさんが出演したタカラチューハイのCM「すったもんだがありました」や、ドラマ『家なき子』の安達祐実さんのセリフ「同情するならカネをくれ」がありました。
「すったもんだがありました」のセリフには、前年貴乃花関とのスピード婚約破棄があった、宮沢さんの私生活を連想するという背景があったためとも思われます。
TERUのプロフィール・SNS
引用元:BAY FM78
プロフィール
- 名前:TERU(てる)
- 本名: 小橋照彦(こばしてるひこ)
- 生年月日:1971年6月8日
- 年齢:53歳(2025年3月現在)
- 出身地:北海道
- 血液型:O型
- 趣味:料理・ラジコン・釣り・サッカー・スノーボード
- 特技:絵・ギター・ベース・ドラム・ピアノ・タンバリン・ブルースハープ
- 所属事務所:LSG
SNS
- X(旧Twitter) URL:https://x.com/TE_RUR_ET
ラオウさん、昨日はありがとうございました!
— TERU (@TE_RUR_ET) March 14, 2025
月一でぜひ通わせて下さい!!!
ラオウ塾、今後も楽しみにしてます!! https://t.co/KZGKB7pjJH
- Instagram URL:https://www.instagram.com/glay__teru/
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- YouTube URL:https://www.youtube.com/GLAY
- オフィシャルサイト URL:https://www.glay.co.jp/

- 公式ブログ URL:https://ameblo.jp/glay-official/


TERUさんの好きなものにお城があるんだよね?

ライブのツアーがある毎に会場近くにお城があるかを調べて、早起きして城めぐりに行くそうよ。
ご本人は「城マニアではないただの城好き」とお話しされているみたいだけど、城跡から戻って来てからライブをするなんて立派なお城愛好家よね。