日本のエンターテインメント界で輝かしい歴史を築いたジャニー喜多川さん。
数々の男性アイドルスターを生み出し、ジャニーズ事務所を日本のトップアイドル事務所へと成長させました。
今回はジャニー喜多川さんの若い頃を振り返り、成功に至るまでの変遷をお届けいたします!
【画像】ジャニー喜多川は若い頃イケメン?
20代・30代(1951年~1971年)
引用元:NHK
ジャニー喜多川さんは、1931年にアメリカ・ロサンゼルスで生まれました。日系2世として日米の二重国籍を持ち、幼少期に日本へ移住、太平洋戦争後の1949年再びアメリカに渡るなど、国際的な感覚を身につけながら成長しました。
そんな彼が人生の大きな転機を迎えたのが、1952年(当時21)の朝鮮戦争への従軍とその後の日本での軍事援助顧問団勤務です。通訳として従軍した経験は、後のエンターテインメントビジネスの礎となりました。
上の画像1は幼少期の家族写真です。父親の喜多川諦道氏は真言宗の僧侶でした。ジャニーさんは姉のメリーさん、兄の真一さんの三姉兄の末っ子でした。画像2は若かりし頃のジャニー喜多川さんです。イケメンですね!
引用元:週刊女性PRIME
ジャニー喜多川さんがジャニーズ事務所を設立するきっかけは、意外にも野球でした。彼は太平洋戦争後の東京各地の空き地で「ジャニーズ球団」という少年野球チームを作り、少年たちを育成していました。
ジャニー喜多川さんは、「あのころは私自身も野球のことしか考えていませんでした。父が宣教師で子ども好きだった感化をうけて、野球のあいまに、ピンポンやスケートをやったり、英語を教えたり」と語っています。
そんなある日、チームの少年たちと一緒に映画「ウェスト・サイドストーリー」を観賞しました。アメリカの不良少年たちが歌い、踊るミュージカルに彼らは魅了され、ダンスを見様見真似で始めるようになります。
特に野球チームの中であおい輝彦さん、中谷良さん、飯野おさみさん、真家ひろみさんの4人は、ミュージカルへの情熱を持ち、本格的に舞台に挑戦したいと考えるようになりました。そこでジャニー喜多川さんは、豊島区雑司ヶ谷の新芸能学院に彼らを紹介し、1962年に「芸研ジャニーズ」という児童部を設立しました(当時31)。
1964年、彼ら4人グループは「ジャニーズ」としてデビューしました。そのデビュー曲の作詞を手がけたのは、後に名作を数多く生み出す永六輔さんでした。すでに彼らには熱心な女性ファンがついており、“追っかけ”という文化もこの頃から生まれ始めていました。
上の画像は1964年に「若い涙」でレコードデビューをした初の少年グループ「ジャニーズ」の4人です。ここからすべてが始まっていったんですね!
引用元:amazon
テレビや舞台で活躍するジャニーズアイドルたち。それまでの日本の芸能界にはなかった「青少年男性グループアイドル」という新しいジャンルを確立したのが、ジャニー喜多川さん率いる「ジャニーズ」です。
1968年には「フォーリーブス」がデビューしました(上画像)。歌とダンスを融合させたエンターテインメント性の高いパフォーマンスで、ジャニーズのスタイルをさらに確立していきました。
こうして、ジャニー喜多川さんが生み出した新しいアイドルの形が、やがて日本の芸能界に大きな影響を与える存在へと成長していくのです。
ジャニー喜多川さんは「踊りでリズム感が身につく。芝居も歌もリズムが基本です。リズム感さえあればどんな芸能もできますよ」とお話しされており、その原点はミュージカルにあることが伺えます。

「ジャニーズ球団」の名付け親は誰なのかな?

あおい輝彦さんよ!それまで弱小球団で「エラーズ」とか色々いわれていたけど、ジャニーさんが指導してるからって「ジャニーズ」と名付けたんですって。それがずっと続いていったのね!
40代(1971年~1981年)
引用元:ニッポン放送
1972年、ジャニー喜多川さん(当時41)がスカウトした郷ひろみさんが芸能界デビューを果たしました(上画像)。彼の登場は、ジャニーズ事務所にとって大きな転機となり、アイドル業界に新風を巻き起こしました。
その後もいくつかのグループが結成され、ソロ歌手もデビューするものの、ジャニーズ事務所が会社化された1975年からは“低迷期”が始まります。
1975年、ジャニー喜多川さん(当時44)の過度な寵愛に反発した郷ひろみさんがジャニーズ事務所を退所しました。さらに、フォーリーブスは1978年に解散を迎え、事務所の行く先に暗雲が立ち込める時期となりました。
ジャニー喜多川さんは「世の中は冷たいもんでね、郷ひろみが移籍したら、みんな態度が変わった。芸能界は、頂点に達すると自分の心も頂点にきて、ふと振り返ると、いつの間にか後ろにはだれもいなかった、という世界かもしれない」と当時を振り返っています。
引用元:週刊女性PRIME
1979年にTBS系ドラマ「3年B組金八先生」の放送が始まります。この作品をきっかけに田原俊彦さん、近藤真彦さん、野村義男さんの3人が「たのきんトリオ」として大ブレイクしました。
彼らはジャニーズの伝統である歌とダンス出身ではなく、テレビドラマから人気に火がついた異色のアイドルでした。本来ジャニー喜多川さんは3人をグループとして売り出すつもりはなく、それぞれをソロ歌手として成功させたいと考えていたといいます。
結果的に、田原俊彦さんや近藤真彦さんはソロ歌手として大成功を収め、ジャニーズ事務所の新たな時代を切り開きました。たのきんトリオの誕生は、ジャニーズのアイドル像に新たな可能性をもたらした出来事でした。
上の画像は左から近藤真彦さん(当時15)、田原俊彦さん(当時15)、野村義男さん(当時19)のものです。青春でキラキラ輝いていますね!

ジャニー喜多川さんはマネージャーは表に出るべきでないとほとんど出てこないけど、ジャニーズ事務所をどのように経営していたのかな?

ジャニー喜多川さんとその姉、メリー喜多川さんの二人の協力体制だったわ。将来のアイドルを見つけ、育て、スターの基礎作りをする、いわば制作担当が弟のジャニーさん。
タレントのしつけ、会社経営など管理面での実務担当が姉のメリーさんだったそうよ。
50代(1981年~1991年)
引用元:女性自身、文春オンライン
1980年代、50代になったジャニー喜多川さんは次々と新たなスターを生み出し、ジャニーズアイドルの新たな時代を築きました。その代表格が、1982年デビューのシブがき隊と、1985年デビューの少年隊です。
シブがき隊は、布川敏和、本木雅弘、薬丸裕英の3人組(上画像1)で「スシ食いねェ!」など、子どもたちがマネしやすいキャッチーな楽曲が人気を集めました。デビュー当初から“隊”としての活動を貫き、戦隊ヒーローのように個性がバランスよくまとまったグループでした。
一方、少年隊(東山紀之、植草克秀、錦織一清)の3人(上画像2)は歌とダンスの実力を徹底的に磨かれたエリートグループでした。ジャニー喜多川さんは彼らにブロードウェイでミュージカルを観賞させたり、海外でダンスレッスンを受けさせたりと、世界基準のエンターテイナーを目指しました。
その結果、「ジャニーさんの理想を具現化した完璧なグループ」とも言われる存在になり、少年隊は紅白歌合戦に8年連続で出演しました。
引用元:ニッポン放送
1988年、ジャニー喜多川さん(当時57)はローラースケートを履いて歌って踊る7人アイドルグループ「光GENJI」(上画像)をプロデュースし、大成功を収めました。この年のオリコン年間売り上げトップ3をすべて光GENJIが独占するなど、まさに社会現象となったのです。彼らの影響で全国の子どもたちがローラースケートに夢中になり、一大ブームが巻き起こりました。
光GENJIの誕生には、ジャニー喜多川さんならではの独特な選考方法がありました。ジャニーズJr.の何十人ものメンバーが集められ、「後楽園にローラースケートの練習場があるから、毎日通うように」と指示されました。
厳しい練習を続ける中でメンバーは徐々に絞られ、最終的に残った数人に対して、ジャニーさんが突然「YOUたち、明日からGENJIね!」と命名。そして、そこに「光」の2人(内海光司さん・大沢樹生さん)が加わり、「光GENJI」が誕生したそうです。

ジャニー喜多川さんはなんで何も説明せずにローラースケート練習場に通わせたのかな?

ジャニーさんはメンバーを選ぶ際、技術以上に「芸事に純粋な気持ちで取り組めるか?」を見ていたのではないかしら。光GENJIの成功の裏には、ジャニー喜多川さんの「ピュア」な心を持ったアイドルへのこだわりがあったのだと思うわ!
60代以上(1991年~2019年)
引用元:BBC News Japan
1990年代に入ると、60代になったジャニー喜多川さんのプロデュース力がさらに進化します。その象徴が「SMAP」の登場でした(上画像1)。彼らは歌やダンスだけでなく、ドラマ、バラエティ、映画など、幅広い分野で活躍し、“アイドル=歌手”という概念を覆しました。
SMAPが飛躍するきっかけとなったのが、1996年にスタートしたバラエティ番組「SMAP×SMAP」(上画像2)です。ジャニー喜多川さんは、SMAPのメンバーそれぞれの個性を大切にしながら、彼らが自らの道を切り開くことを後押ししました。
特に木村拓哉さんの俳優としての成功や、中居正広さんの司会業での才能をいち早く見抜いていたと言われています。ジャニーさんは「YOUたちは普通のアイドルとは違う」と何度も語っていたそうで、まさにSMAPはジャニーズ事務所の新たな可能性を切り開いたグループでした。
その結果、歌、バラエティ、ドラマ、映画と幅広い活躍を見せるようになり、「世界に一つだけの花」をはじめとする数々のヒット曲を生み出し、国民的アイドルと呼ばれるようになりました。
引用元:週刊女性PRIME、amazon、oriconnews
SMAPがアイドルの新しい形を作り上げた後、ジャニー喜多川さんは多様なコンセプトを持つグループを次々とデビューさせました。バンド形式のTOKIO、年齢差のある個性派アイドル集団であるV6、関西系の二人組ユニットであるKinKi Kids、王道的アイドルを目指す嵐など、誰でもどこかで知っているアイドルとなりました。
2000年代にはジャニー喜多川さん(当時70代)は個性派グループを次々に誕生させました。タッキー&翼(二人組)、NEWS(2002日韓ワールドカップ応援)、関ジャニ∞(関西出身メンバー)、KAT-TUN(ワイルド系)、Hey! Say! JUMP(メンバー全員平成生まれ/上画像1)など、それぞれ独自のカラーを持つグループが登場しました。
2010年代にはジャニー喜多川さんは(当時80代)、これまでの成功パターンをさらに進化させました。
NYC(3人組/上画像2)、Kis-My-Ft2(ローラースケート)、Sexy Zone(セクシー路線)、A.B.C-Z(DVDシングルデビュー)、ジャニーズWEST(関西色/上画像3)、King & Prince(ファンタジー路線)など、過去の成功を活かしつつ新たな要素を取り入れたグループが続々登場しました。
音楽・バラエティ・舞台などますます活躍の場を広げ、新たなジャニーズを築いていきました。

80代になったジャニー喜多川さんは、ジャニーズ事務所の後継者についてどう思っていたのかな?

ジャニー喜多川さんは自分が育て上げた子供たちを信頼していたのよ。
「マネジャーなしで、自分でやれる人間ばっかりなんですよ。まだ、ボクがいるから、遠慮してるとこ、あると思う。ボクいなかったら、それこそ大活躍できるんじゃないかなあ。だから、ボクが知らん顔して消えちゃったとしても、十分できますよ」とおっしゃっていたわ!
ジャニー喜多川さんが経営していたジャニーズ事務所から輩出したアーティストは?
引用元:ビクターエンタテインメント、STARTO ENTERTAINMENT、ナタリー
ジャニー喜多川さんが経営していたジャニーズ事務所からは、SMAP、嵐、King&Princeなどが輩出されました。
【画像】ジャニー喜多川から 滝沢秀明への遺言は?スペオキは誰?
ジャニー喜多川から滝沢秀明への遺言は?
引用元:yahooニュース
2019年6月18日午前11時30分頃、ジャニー喜多川さんは自宅で体調の異変を訴え、救急搬送されました。その後、日本赤十字社医療センターで治療を受けましたが、2019年7月9日午後4時47分、くも膜下出血により87歳でこの世を去りました。
そんな中、ジャニーさんは最期の瞬間に滝沢秀明さんへ「遺言」とも言えるメッセージを残したとされています。
意識がなかったジャニーさんに対し、滝沢さんは信頼する霊能者を病院に呼び寄せ、その霊能者を通じてジャニーさんの思いを聞いたといいます。
そこには、「ジャニーズJr.をしっかり育ててほしい」「YOUは事務所を好きなようにしていい」という言葉があったとされています。
ジャニーさんの“遺志”を受け継ぐ形で、滝沢さんはジャニーズJr.の育成に尽力し、ジャニーズ事務所の新たな時代を築こうとしました。このエピソードからも、ジャニーさんがいかにジュニアたちを大切にし、未来のジャニーズを託そうとしていたのかが伝わってきます。

ジャニー喜多川さんのご家族はいらっしゃらなかったのかな?

ジャニー喜多川さんは生涯独身だったわ。姉のメリーさんと二人三脚で築いたジャニーズ事務所は姪のジュリーさんが受け継ぎ、最後は閉じたわ。
ジャニー喜多川のスペオキは誰?
引用元:NHK、日刊ゲンダイ、文春オンライン
引用元:スポニチ、文春オンライン、文春オンライン
ジャニーズ事務所の創設者・ジャニー喜多川さんには、「スペシャルお気に入り」、通称「スペオキ」と呼ばれる特に目をかけたタレントたちがいました。彼の鋭い審美眼とプロデュース力で見出された「スペオキ」たちは、次々とスターへの道を歩んでいきました。
スペオキの一貫した特徴として小柄で華奢な体型 、美しく整った顔立ちと大きな瞳、圧倒的なスター性があげられます。
上画像にスペオキと言われる元ジャニーズの方たちを並べましたが、どの方も華やかなスター性を放っています。
上画像1松本潤さん、上画像2滝沢秀明さん、上画像3道枝駿佑さん、上画像4横山裕さん、上画像5亀梨和也さん、上画像平野紫耀さん
他にも堂本剛さん、岡田准一さん、中山優馬さん、佐藤勝利さん、髙橋海人さん、髙橋優斗さん、三宅健さんなどもスペオキと呼ばれています。

スペオキの方たちってジャニーズ事務所ではどんな役割があったのかな?

スペオキの多くは、後輩たちの面倒をよくみたり、ジャニーさんから特別な役割を与えられることも多く、事務所の中心的な存在になることもあったみたいね!
ジャニー喜多川のプロフィール・SNS
引用元:文春オンライン
プロフィール
- 名前:ジャニー喜多川(じゃにーきたがわ)
- 本名: 喜多川 擴(きたがわ ひろむ)
- 生年月日:1931年10月23日
- 年齢:享年87歳(2019年7月9日死去)
- 出身地:アメリカ ロサンゼルス
- ジャニーズ事務所 創業者社長

ジャニー喜多川さんのジャニー語録で有名な言葉ってあるのかな?

「ジャニー語録」のなかでも最も有名といえるのが「YOU、やっちゃいなよ」ね。「人間は失敗で学んだことは忘れないもの。完璧な人間なんて信用できない」という考えから、ジャニーさんは、タレントには何にでも果敢にチャレンジさせていたんですって。「経験から学び、失敗から這い上がれ」というメッセージだったそうよ!