数多くのバラエティー番組の司会を務め、アナウンサーとして活躍を続けてきたみのもんたさん。
軽快なトークがお茶の間で人気の名司会者で、全盛期には『視聴率男』『長寿番組男』の異名を取りました。
今回はみのもんたさんの若い頃を振り返り、2025年3月に逝去されるまでの変遷をお届けいたします!
【画像】みのもんたは若い頃から人気!
10代・20代(1954年~1974年)
引用元:NEWSポストセブン
みのもんたさんは、1944年8月22日に東京都世田谷区で、御法川(みのりかわ)家の次男として生まれました。
本名は、御法川法男(みのりかわのりお)さんです。父親の御法川正男(みのりかわまさお)さんは、水道メーターの製造販売会社である「日国工業株式会社」を経営していました。
みのもんたさんの伯父がお芝居をやっていた関係で、自宅の離れに森繫久彌さんが住んでいたことがありました。その時にチケットをもらって映画をよく見に行ってたことで、みのもんたさんは芝居や映画に興味を持ち始めます。
上の画像はみのもんたさんが11歳の時のものです。小学生の時はいつも泥だらけになりながら外で遊んでいて、ほとんど家にいないような少年だったそうです。
その後、みのもんたさんは、立教中学校(現・立教池袋中学校)へ進学します。この時期に、アナウンサーの道を目指すきっかけとなる出来事がありました。
みのもんたさんは、中学校のある池袋への通学途中で見た露天商の、よどみないしゃべりに魅了され、お芝居ではなく、自分の言葉で情報を伝えたいと感じたのです。これが、みのもんたさんがアナウンサーを志した瞬間でした。
引用元:ORICON NEWS
みのもんたさんは、立教高等学校(現・立教新座高等学校)を経て、1963年(当時18歳)の時に立教大学 経済学部に入学します。
大学では放送研究会に所属し、番組制作や番組発表会などの活動をしていました。上の画像は立教大学生の時のものです。人から好かれそうな、真っすぐな目をしていますね。
立教大学 放送研究会からは、これまでも多くのアナウンサーを輩出しています。
みのもんたさんの入学と入れ替わりで立教大学を卒業した、4年先輩である徳光和夫さんが、日本テレビに就職していました。大学在学中には徳光和夫さんからスタジオ見学に連れていってもらったり、アナウンサーの魅力を教わったりしていたそうです。
この時みのもんたさんは、「「アナウンサーはいいよ」って、うまいんだ、言い方がね。」とお話しされており、テレビ界で活躍されている徳光和夫さんを見て、アナウンサーになる夢がいっそう膨らんだのだろうと想像できます。
引用元:スポニチ Sponichi Annex
みのもんたさんは、1967年(当時22歳)の時に、立教大学を卒業し、文化放送に入社しました。
就職先の第1志望はTBSでしたが採用試験で不合格となり、文化放送に就職した後は、ラジオのアナウンサーとして活動しました。芸名の「みのもんた」は、本名が難解すぎるという理由から、文化放送時代に名付けられています。御法川ではなく「みの」と呼ばれていたこと、申年生まれだったことから「もんた」とされたそうです。
この時みのもんたさんは、「ずいぶん簡単に言うなと思いましたけど」とお話しされており、当初はあまり乗り気ではなかったことが確認できます。
上の画像は文化放送時代のものです。1969年~1973年まで深夜番組「セイ!ヤング」のパーソナリティーを担当し、人気を集めていました。
ちなみに、みのもんたさんは1970年(当時26歳)の時に、大学の放送研究会の1学年後輩だった靖子さんと結婚しました。靖子さんは結婚してから66歳に亡くなるまで、みのもんたさんのスタイリストとして夫を支え続けてきました。

みのもんたさんと奥様のなれそめって何だったのかな?

それは、靖子さんがお弁当をつくってきてくれたのがきっかけで、お付き合いするようになったみたいよ!初めはみのもんたさんの片思いだったんだって!
30代(1974年~1984年)
引用元:産経新聞
みのもんたさんは、1979年(当時35歳)の時に文化放送を退社し、父親が経営していた「日国工業株式会社」で約10年、営業職に従事していました。ライトバンで全国を走り回り、飛び込み営業をしていたそうです。
ある夜、みのもんたさんが営業先のホテルで人気テレビ番組を目にした時、「自分もあそこにいたのに」と、挫折感でいっぱいになったことがありました。その様子を見ていた父親の正男さんが、みのもんたさんを食事に誘い、地方の小さな居酒屋で、美味しい食事と日本酒一升を2人で堪能した後は、疲れも沈んだ気持ちも吹き飛んだと言います。
みのもんたさんのお酒好きは父親譲りで、どんなに忙しい時も、毎日のお酒が楽しみだったようです。
この後、フジテレビより声がかかり、1980年から『プロ野球ニュース』の土日のキャスターを担当しました。大リーグのビデオ映像に合わせて入れたアテレコが視聴者に大人気で、みのもんたさんは注目されました。
上の画像はその頃にインタビューを受けた時のものです。みのもんたさんはここから、テレビアナウンサーとして快進撃を見せます。
引用元:YouTube
みのもんたさんが1983年(当時39歳)の時に、プロ野球ニュースから発展した形で放送を開始した、プロ野球珍プレー・好プレー大賞のナレーションを担当することになりました。人気のアテレコで、みのもんたさんが獲得した番組です。
この時みのもんたさんは、「表現力がラジオとテレビでは違う。ラジオの場合、聴き手にイメージを思い浮かべてもらわなくちゃいけない。テレビでも間があったほうがイメージが広がるなあと思って。」とお話しされており、テレビ番組でも文化放送時代のアナウンサー経験が生きていたことが確認できます。
上の動画は第1回プロ野球珍プレー好プレー大賞のものです。軽快なトークの中にも、”間”が取られていることで臨場感や面白さが伝わってきますね。
2000年~2007年にかけて放送されたクイズ番組『クイズ$ミリオネア』では、みのもんたさんの「ファイナルアンサー?」の後に正解・不正解を言うまで”間”をためる、通称みのだめが誕生しました。
視聴者が楽しめるよう常に考え、本気でアナウンサーの仕事をしてきたみのもんたさんの想いを感じます。

みのもんたさんが、”間”を大切にし始めたきっかけは何だったのかな?

それは、小説『宮本武蔵』の朗読をラジオで聞いたのがきっかけだったんだって!アナウンサーだった芥川隆行さんが展開した、ドキッとするくらい間を空ける語りに引き込まれたみたいよ!
40代以上(1984年~)
引用元:FRIDAY DIGITAL
みのもんたさんは、40歳を過ぎた頃に糖尿病の診断を受けました。
それ以来約40年、定期的な血液検査とともに、食事を食べる順番を気を付けたりジムに通って体を動かしたりしながら病気をコントロールしてきたそうです。妻の靖子さんがカロリー計算をして作ってくれるお弁当も健康の支えになっていました。
この時みのもんたさんは、「糖尿病になるとネガティブな発想に陥りがちですが、自分の健康に気を遣う良いきっかけになったと考えるといい。“大らかに”、これが一番です。」とお話しされており、前向きなみのもんたさんらしい受け止め方である気がします。
上の画像はみのもんたさんが肉体改造中の50歳頃のものです。しかし、糖尿病になっても、お酒だけはやめなかったそうです!
引用元:読売新聞オンライン
引用元:産経新聞
みのもんたさんは、2006年(当時62歳)の時に、「1週間で最も長時間テレビの生番組に出演する司会者(21時間42分)」として、ギネス世界記録に認定されました。
全盛期にはレギュラー番組を16本を抱え、睡眠時間は1日2~3時間ほどだったそうです。
1990年以降に司会を務めた、日本テレビの『午後は〇〇おもいッきりテレビ』やTBSの『学校へ行こう!』『どうぶつ奇想天外!』は10年以上続いた長寿番組となり、みのもんたさんは長寿番組男の異名を取りました。
さらに、TBSの『みのもんたの朝ズバッ!』が放送1年半で同時間帯の視聴率月間トップとなり、視聴率男とも呼ばれるようになります。
勢いはこれだけにとどまらず、2008年(当時64歳)には生番組出演時間22時間15秒となり、自身のギネス記録を更新されました。
この時、みのもんたさんは、「酒を飲む回数も量も増えたぐらい。時間をうまく使えるようになったのかな。」とお話しされており、60歳を超えてもなお、パワフルな人物であったことが確認できます。
上の画像は、1枚目が『午後は〇〇おもいッきりテレビ』で視聴者の相談を電話で受けるコーナーの1場面、2枚目がギネス認定された時のものです。みのもんたさんをテレビで見ない日はないほど、人気司会者として大活躍した時期でした。

みのもんたさんのギネス記録はまだ誰にも破られていないのかな?

それは、1週間で25時間53分57秒番組出演した、ロシアのテレビ司会者ウラジミール・ソロビエフ氏が、1990年にみのもんたさんの記録を抜いたみたいよ!
みのもんたさんが立教大学時代に所属していた”放送研究会”には他に誰が所属してた?
引用元:毎日新聞、古舘プロジェクト、株式会社グローバルプロモーション
みのもんたさんが立教大学時代に所属していた放送研究会には、アナウンサーの徳光和夫さん、古舘伊知郎さんや中村江里子さんなどが所属していました。
【画像】みのもんたの息子は逮捕された?パーキンソン病で姿が激変?
みのもんたの息子は逮捕された?
引用元:YouTube
日本テレビに勤務していた、みのもんたさんの次男・御法川雄斗(みのりかわゆうと)さんは、2013年9月11日に窃盗未遂の疑いで逮捕されました。逮捕前月の8月13日に、酔って路上で寝ていた男性のかばんを盗み、入っていたキャッシュカードで現金を引き出そうとした疑いでした。
御法川雄斗さんはしばらく容疑を否認していましたが、逮捕直後に容疑を認め、10月1日に窃盗容疑で再逮捕されました。そこから2日後に釈放されています。
釈放直後の次男から謝罪を受けたみのもんたさんは、「俺に謝るよりも、まず嫁さんと子供たちに、手をついて謝るほうが先じゃないのか!」と一喝したそうです。この時、御法川優斗さんの妻は2人目の子供を妊娠中でした。
2012年に最愛の妻 靖子さんを亡くしたばかりだったみのもんたさんは、孫の誕生を心待ちにしており、次男の家族を心配する気持ちが大きかったようです。
上の画像は、次男逮捕後に行った謝罪会見の時のものです。この後みのもんたさんは、高視聴率番組だった『みのもんたの朝ズバッ!』を降板しました。

御法川雄斗さんは、逮捕後も日本テレビでの仕事を続けられたのかな?

それは、日本テレビは諭旨解雇となったそうよ!退職から1年ほど経ってから、みのもんたさんが当時社長を務めていたニッコクへ入社して、技術を学ぶために地方の工場で仕事を始めたんだって!
みのもんたさんは、特別扱いはせずに息子が自分の力で立ち直っていけるよう、親として見守る気持ちでいたみたいよ。
みのもんたはパーキンソン病で姿が激変?
引用元:YAHOO! JAPAN ニュース
引用元:スポーツ報知
みのもんたさんさんは、2019年(当時75歳)に国指定の難病であるパーキンソン病と診断されました。
知人の葬儀に参列した際に焼香の列で体がグラリと揺れる感覚があり、病院で検査を受けたことで判明しました。ほかにも、顔の筋肉が下がっていて目が開きづらくなったり、ソファから立ち上がれなかったりと身体の異変を感じていたそうです。
みのもんたさんは、2020年3月(当時75歳)で最後のレギュラー番組だった『秘密のケンミンSHOW』を降板します。若いタレントの名前が覚えられなくなったこと、トークのテンポについていけなくなったことが理由でした。
この時みのもんたさんは、一線を退く心境について「レギュラーがなくなって悔しいという気持ちは全然なくて、いくつもの長寿番組に恵まれ、いい人生を歩いてきたと思う。」とお話されており、どんな仕事も全力で打ち込んできた、後悔のないアナウンサー人生だったのだろうと感じます。
パーキンソン病は放置すると歩けなくなっていくこともあるため、みのもんたさんは投薬とリハビリ中心の治療を続けて、病気と付き合ってきました。会長を務めたニッコクの会長室で、毎日1時間はフィットネスバイクで足腰を鍛えていたそうです。
上の画像は、リハビリの様子と、みのもんたさんが2024年8月に80歳を迎えた時に撮影されたものです。以前と変わらない笑顔は健在ですが、顔がほっそりとし、かなり痩せてしまったことが分かります。
それから5ヶ月後の2025年1月、行きつけの焼き肉屋で食事をしていたみのもんたさんが、肉を喉に詰まらせて救急搬送されています。そのまま意識が戻ることなく、3月1日に逝去されました。

みのもんたさんが『秘密のケンミンSHOW』を降板した後は、誰が司会者になったのかな?

それは、爆笑問題の田中裕二さんが司会を引き継いでいるよ!
そのタイミングで『秘密のケンミンSHOW極』とタイトルを変更して、2025年で18年の長寿番組になっているんだよ!
初代司会者である、みのもんたさんの功績はとても大きいよね!
みのもんたのプロフィール・SNS
引用元:婦人画報.jp
プロフィール
- 名前:みのもんた
- 本名: 御法川 法男(みのりかわ のりお)
- 生年月日:1944年8月22日
- 年齢:享年80歳(2025年3月1日逝去)
- 出身地:東京都
- 血液型:A型
- 趣味:食べ歩き、飲み歩き
- 特技:ゴルフ、スキー、テニス、乗馬
- 所属事務所:ニッコク
SNS
- X(旧Twitter) URL:https://x.com/_mino_monta
もうすぐよるバズ本番!なんと本番前にサプライズ~!もうすぐ誕生日なんだけど前祝い!みんなありがとう! pic.twitter.com/pgw3POExMi
— みのもんた (@_mino_monta) August 20, 2016
- オフィシャルサイト URL:http://www.minomo.jp/message.html


みのもんたさんはかなりのお酒好きだったみたいだけど、どの辺で飲むことが多かったのかな?

銀座に行くことが多かったみたいだね!
どんなに忙しくても、一晩で3、4軒顔を出すのが普通だったみたいよ!
仕事仲間や親族と酒を酌み交わすのが、みのもんたさんにとっての癒しだったんだって。