俳優・映画監督として活躍を続けている津川雅彦さん。
NHK大河ドラマの常連で、戦国時代の三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)すべてを演じ、昭和の名優と言われ活動してきました。
今回は津川雅彦さんの若い頃を振り返り、現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!
【画像】津川雅彦は若い頃イケメン!
幼少期・10代(1940年〜1960年)
引用元:X、X津川雅彦さんと長門裕之さんの子役時代
— 銀座カンカン息子 (@TwentyFourEyes) August 8, 2018
「狐の呉れた赤ん坊」(1945年 監督:丸根賛太郎)
「無法松の一生」(1943年 監督:稲垣浩)
より#津川雅彦#長門裕之#津川雅彦が演じた好きな役を語る #昭和偉人伝 pic.twitter.com/ITEyaUUFxI子役の津川雅彦さんといえばこれ(*´-`)阪妻さんと共演。 pic.twitter.com/OsHf4Kllow
— ピチ子 (@comomoda1) September 30, 2018
津川雅彦さんは、歌舞伎役者の父、女優の母、俳優の兄・長門裕之さん、祖父は日本映画の父と呼ばれる映画監督という芸能一家の中で育ちました。幼い頃から両親の大きな期待を背負い、父親が主宰していた劇団・新演技座の子役として物心つく前から芸を仕込まれていたそうです。
津川さんも「僕は生まれた時からいい顔してたから、『コイツが跡継ぎだ』と両親から役者として将来を期待されて育った。」とお話しされています。兄と共に子役として10本の映画に出演されて活躍されていましたが、化粧するのが嫌で、役者は好きではなかったそうです。
上の画像は1945年(当時5歳)子役デビュー作品『狐の呉れた赤ん坊』のものです。確かに5歳とは思えない、しっかりとした顔立ちをされていますよね!
引用元:X北原三枝(石原まき子)さん
— 勇気りんりん (@yu4ki9rin8) July 23, 2023
1933年7月23日 ご生誕日🎉
1956年 映画「狂った果実」
石原裕次郎さんと初共演後、日活ドル箱コンビとして23作もの共演作が製作されました🤗
名シーンから
北原三枝さん 石原裕次郎さん
津川雅彦さん pic.twitter.com/zvBWFTO948
津川雅彦さんは、1956年(当時16歳)映画『狂った果実』で本格的に俳優デビューしました。主演・石原裕次郎さんの弟役でした。
役者を探していた『狂った果実』の作者・石原慎太郎さんに気に入られ、「彼でなければ駄目だ」という強力な推薦により津川さんの配役が確定したそうです。上の動画が『狂った果実』のワンシーンです。当時の津川さんは新聞記者に憧れて早稲田大学高等学院に在学していました。
子役時代は本名の『加藤雅彦』名義で仕事をされていましたが、石原慎太郎さんが名付け親になり、自らの小説『太陽の季節』の主人公『津川竜哉』にちなみ、『俳優・津川雅彦』が誕生しました。
当初は役者になる気はなかったそうですが、すでに『太陽の季節』で評価され活躍されていた6歳年上の兄・長門裕之さんから『この映画に出た奴は必ずスターになり、俺のライバルになる。お前がこれに出て、一本で辞めて新聞記者になってくれたら、俺のライバルを消せる。だから協力してくれ』と説得されていたそうです。
「兄貴の役に立つなら、夏休みだし1本くらい出てもいいか」という軽い気持ちで受けた出演が、のちの兄弟関係に大きく関わることとなってしまいました。
引用元:X、X津川雅彦は若い頃、美少年の青春スターだったんだよ。
— チカチカ (@4TLfhF1QVLldi4p) October 19, 2020
『映画ファン』(1958年4月号)より。 pic.twitter.com/qx5KZlZigr映画ファン 昭和34年5月号 新人スタア紹介『松竹のホープ 明日の太陽たち』/右から千之赫子さん、九条映子さん、十朱幸代さん、杉浦直樹さん、山本豊三さん、富永ユキさん、津川雅彦さん、花の本寿さん、桑野みゆきさん、松本錦四郎さん、北条喜久さん、朝海圭子さん pic.twitter.com/AV9hWWHFX5
— 島倉千代菊 (@wataridori333) January 9, 2020
『狂った果実』で一躍スターになった津川さんは、長門裕之さんと同じく日活に在籍することになりました。
演技力を高く評価された兄をしのぐ、さらに人気を博した弟のことを、長門さんは快く思わなかったそうです。兄弟は晩年に和解するまでライバル関係が長く続くことになってしまいました。
津川さんもこの頃のことを「チヤホヤされていい気持ちになっていた」とお話しされています。長門さんは津川さんと離れるために、「日活から松竹へ行く」と言い出したそうですが、慕われていた後輩たちに泣いて止められたそうです。
「兄貴に『お前が松竹へ行け』と。『別に構わないよ』って。当時は『顔さえ良ければスターになれる』と天狗になってたからね。」そう津川さんはお話しされた通り、1958年(当時18歳)日活から松竹へ移籍されました。
上の画像1つ目は1958年の雑誌、2つ目は1959年(当時19歳)松竹に移籍後の雑誌です。長門さんは優しげで、津川さんはキリッとされた顔立ちをされていますよね。
津川さんがチヤホヤされていたのもうなづけますし、長門さんが「約束を破った」と弟の成功を悔しく思ったのもわかる気がします。

津川さんは中学生時代に洛星中学校から同志社中学校へ転校されているんだよね。

中学時代にも映画に出演されていて、1954年(当時14歳)には映画『山椒大夫』に出演した際に撮影が長引いて、中学を留年してしまったそうなの。転校して中学2年生をもう1度やり直したそうよ。
溝口健二先生の『山椒大夫』に出た時は撮影が長引き、中学を留年させられてね。その時叔父のマキノ雅弘が溝口先生のところに僕を連れてって、監督に頭を下げさせて謝らせたんです。我々はやくざ一家だなと、つくづく思い知りましたね
引用元:NEWSポストセブン
20代(1960年〜1970年)
引用元:Instagram
津川雅彦さんは、松竹へ移籍後も精力的に映画へ出演されます。20歳になった1960年だけでも13本の映画に出演され、大島渚監督の『太陽の墓場』など多くの話題作に出演しました。
それでもデビュー作1本でスターに上り詰めてしまったために、初登場のインパクトが強すぎて、それを超える作品にはなかなか出会えなかったようです。
上の画像は1960年映画『バナナ』のものです。目力のある整った顔立ちですよね。その眼差しに心が奪われそうです。
引用元:Instagram、Instagram
上の画像は1961年(当時21歳)の映画『あの波の果てまで』の岩下志麻さんとの爽やかなツーショット、1965年(当時25歳)テレビ番組収録中に兄弟で会話をしているところです。
移籍後約30本出演した映画がヒットせず、1964年(当時24歳)松竹から契約を解除されてしまいました。
津川さんは「役者への意欲もなければ苦労もなくアイドルになったから、すぐ人気も落ちた。兄貴との確執でファンに担がれている身分も忘れ、所属映画会社を移籍したから、以来、奈落の底へ転がり落ちる羽目になった」とお話しされています。
若い人たちに言いたいのは、今の人生は、自分だけの力で手に入れたんじゃないって自覚すること。誰だって生まれてからこの方、何百人もの手にかかり、その人たちの思いや期待を背負って今日がある。感謝しなければいけない人がたくさんいる。それを忘れて一人でやって来たように自惚れたり、勝手に孤独だと悲観したりしては、運に見放される。特に会社を替わる決断なんてものは、安易にしちゃ必ずツキが落ちしっぺ返しを喰らう。
引用元:リクナビNEXT
この頃のことが津川さんにとって、人生の教訓となっていたようです。
引用元:Instagram
フリーに転身し、テレビ番組などにも活動の場を広げた津川雅彦さんは、1969年(当時29歳)の時に、デヴィ・スカルノさんとの不倫騒動を起こしました。
デヴィ夫人は、「津川さんとお付き合いしたのは2カ月という短い期間でしたが、結婚についても考えたことがありました。“恋多き女”とも呼ばれていた私ですが、津川さんは私が本気で好きになった、ただ1人の日本人男性だったのです。」とお話しされており、特殊な状況だったこともあり、2人の間では本気の恋だったのではないでしょうか。
このスキャンダルから津川さんは世間からのバッシングにあい、仕事が激減してしまいました。
上の画像は当時のものです。後にデヴィ夫人が「あの方、おきれいだったんですよ」とお話しされているように、美男美女でお似合いのカップルに見えますよね。

デヴィ夫人は、後に津川さんが結婚される朝丘雪路さんとも津川さんと出会う前から交流があったんだって?

親日派だったインドネシアのスカルノ大統領が、朝丘さんの父で日本画家の伊藤深水さんに、デヴィ夫人の肖像画を依頼したことがきっかけだったそうよ。お2人が結婚後、3人で銀座に遊びに出かけたこともあったんですって!
30代(1970年〜1980年)
引用元:NEWSポストセブン、Instagram
津川雅彦さんは女性スキャンダルや、所属事務所の移籍問題などの影響から、しばらく仕事の入らない時期がありました。
この時「仕事が全くなくなった。すべての週刊誌で4週続けて取りあげられる。悲惨な状況だった。でも、このどん底の体験が後に生きた。」とお話しされています。
そんな中でも1972年(当時32歳)ドラマ『必殺仕掛人』の悪役として出演されました。「このスキャンダルを宣伝費にしたら何十億もの価値だぜ。活かさないでどうする」と友人に言われ、悪役としての出演を受けたそうです。
「日本の男はあの野郎もてやがってと嫉妬してる。女も、あんなプレイボーイ大嫌いだと、評判はガタ落ちだ。今世間の男や女からお前は最高に嫌われているんだ。だから敵役や、いやらしい嫌われる役をやれば、みんなに喜ばれるに違いない」ってね。これは目からウロコだった。
引用元:リクナビNEXT
津川さんは、かつての美男スターのプライドを捨てて悪役をこなす中で、多くのことを学んでいったそうです。
上の画像は1971年(当時31歳)の雑紙、1975年(当時35歳)ドラマ『必殺仕置屋稼業』のものです。正統派イケメン俳優の美貌と、個性的な悪役の演技とのギャップにとても惹きつけられてしまいますね。
引用元:X「岸辺のアルバム」には津川雅彦も出ていた。30代独身の冴えない高校教師の役で、この時期の津川さんには珍しい役かもしれない。本来は八千草薫の浮気相手の役だったが竹脇無我と入れ替わったとのこと。替えて正解だった pic.twitter.com/F8g6ScERic
— hayamin (@hayamin_tw) August 8, 2018
津川雅彦さんは1978年(当時38歳)に『おもちゃ屋グランパパ』というおもちゃ屋さんを開業されました。
自分の生まれた娘に、木製のおしゃぶりをドイツから取り寄せたことをきっかけに、子供に安全なおもちゃを与える必要性を感じ、設立されたそうです。
「子供と一緒に遊べるパパこそ偉大な父であり、そのようなパパが増えますように」との願いが、『グランパパ』の名前には込められています。
上の画像は1978年(当時38歳)ドラマ『岸辺のアルバム』の時のものです。娘が生まれ30代も後半になり、だんだん風貌にも貫禄が出てきはじめたように見えますよね。

プレイボーイと呼ばれて恋の噂が絶えなかった津川さんも、娘の真由子さんが生まれてから子煩悩の良き父親になったんだね。

子煩悩どころかとても溺愛していて、父兄参観には必ず出席して、なんでも相談に乗って、よく一緒に外出もしていたそうよ。
芸者と遊ぶ時に真由子さんも連れて行った事があるし、真由子さんが30歳になる頃まで一緒にお風呂にも入っていたんですって。
婚約者を連れて来ても、絶対に笑顔で挨拶しないと決めているほどよ。
40代以上(1980年〜)
引用元:X、TBSチャンネル#津川雅彦が演じた好きな役を語る
— タイプ・あ~る (@hitasuraeiga) August 8, 2018
『マルサの女』の花村かな。インタビューで「伊丹十三監督は台本に書かれているセリフを一言一句変えさせない。語尾をちょっと変えただけでもNGになる。だから、役を完璧に自分の中へ叩き込んでなきゃいけないんだ」と語っていたのが印象的だった。合掌。 pic.twitter.com/xhb8pv7uM2
引用元:X間違いなく #NHK #大河ドラマ #葵徳川三代 の #徳川家康 役でしょ!!
— sau2 (@kazuya82015491) August 8, 2018
#津川雅彦が演じた好きな役を語る pic.twitter.com/YXE5a74p19
40代以降、俳優として多くの役柄を務めた津川さんは、1982年(当時42歳)フランス小説が原作の映画『マノン』で第24回ブルーリボン賞助演男優賞を初受賞されました。
この映画では当時21歳の佐藤浩一さんが新人賞を受賞し、ビートたけしさんが映画初出演されています。
特に伊丹十三監督の作品では、コミカルな役どころを演じて演技の幅を広げ、脚本家であるジェームス三木さん、作家の渡辺淳一さん、伊丹十三監督について「3人は『三種の神器』のような存在であり、恩人。彼らなくして今日の自分はなかった」と話すほど多くの作品に参加されました。
上の画像は伊丹十三監督作品1987年(当時47歳)映画『マルサの女』、1992年(当時52歳)渡辺淳一さん原作ドラマ『うたかた』、2000年(当時60歳)ジェームス三木さん脚本の大河ドラマ『葵徳川三代』です。
渡辺淳一さんはこの頃の津川さんについて「50代で品の良い好色な感じを演じられるのは、いまや津川さんくらい。芸域が広く若いときから感性で生きている人ですね。」と絶賛されていました。
引用元:X 、中村梅雀オフィシャルブログ#出番少ないけど印象に残っているキャラ
— おんばけ@中身がスカスカな着ぐるみ (@onbake_Otsuka) October 14, 2021
映画『寝ずの番』の長門さん演じる橋鶴師匠。
ラストの『しゅっぽしゅっぽ♫』にもちゃっかり出てたり。 pic.twitter.com/PnTrqTASoh
津川雅彦さんは、1993年(当時53歳)映画監督のオファーがあった際、病床の叔父・マキノ雅弘さんに『マキノ』を名乗ることの了承を受けていました。
祖父で日本映画の父と呼ばれるマキノ省三さんは、マキノ・プロダクションを作り、長男であるマキノ雅弘さんを筆頭に、子役から俳優、映画監督へと育った自らの子供たちに、「マキノ」の姓を冠して行ったそうです。
2006年(当時66歳)マキノ雅彦監督の初監督作品『寝ずの番』が上映され、翌年には批評家特別監督賞を受賞しています。
さらに6年後の2012年(当時72歳)、マキノ雅弘さんが1941年に撮った映画『男の花道』をマキノ雅彦監督として舞台化し、中村福助さんや中村梅雀さんが出演されていました。
この頃には「もう肉体的にきつい。監督をやっているほうがずっと楽しい。それだけじゃ食えないので、役者もやってますけどね」と笑いながらお話しされていました。
上の画像は、2006年コメディ映画『寝ずの番』のワンシーン、2012年の舞台『男の花道』の東京公演時インタビューのものです。俳優だけではなく、起業家や監督としても幅広い分野で才能を発揮されていました。
多くの作品に携わった津川雅彦さんは、監督としては映画を3本、俳優として映画150本以上、ドラマ約300作品に出演されました。

津川雅彦さんと長門裕之さんは晩年に共演が増えたよね。

津川さんが1982年にブルーリボン賞助演男優賞を受賞されてから、長門さんが津川さんの俳優としての実力を認めて和解したそうよ。
きっともっと前から実力は認めていて、受賞がきっかけ歩み寄れたんでしょうね。
津川雅彦さんが所属する”グランパパプロダクション”には他に誰が所属してる?
引用元:グランパパプロダクション、グランパパプロダクション、グランパパプロダクション
津川雅彦さんの所属するグランパパプロダクションには、俳優の秋野大作さん、女優の岩下志麻さんや娘で女優・ジャズシンガーの真由子さんなどが所属しています。
1981年から津川雅彦さんが創業し、所属、経営されてきた芸能事務所です。
【画像】津川雅彦の娘が誘拐されていた!朝丘雪路との馴れ初めは?
津川雅彦の娘が誘拐されていた!
引用元:日刊スポーツ
事件は1974年8月15日の深夜、津川雅彦さんの自宅で発生しました。犯人は長女の真由子さん(当時生後5か月)を自宅から連れ去り、身代金として500万円を要求したそうです。
脅迫電話をかけてきた犯人は、身代金を第一勧業銀行(現:みずほ銀行)の偽名口座に振り込むことを要求し、津川さんは警察の指示に従って150万円を指定の口座に振り込みました。
当時の銀行では口座を作る際に本人確認は行われず、現金と印鑑さえあれば偽名でも開設することが可能でした。しかも、当時のオンラインシステムでは口座からの引き出しがどのATMからのものか特定できなかったそうです。
第一勧銀のSEが8月15日深夜に突貫作業でソフトウェアを書き換えたこと、そして警察の迅速な対応により、真由子さんは41時間ぶりに発見され無事に保護されました。
犯人は23歳の男性で、本当の標的は歌手の佐川満男さん・伊東ゆかりさん夫妻の長女でしたが住所がわからず、週刊誌で得ていた津川さんの家庭状況や自宅の住所・間取りなどの情報をきっかけに変更したことを話しています。
この誘拐事件は津川さんの意識に大きな変化を与えたそうです。
引用元:スポニチ
2017年、津川さんは2013年7月から北朝鮮による日本人拉致問題の啓発ポスターでモデルをされていましたが、ボランティアで務めていることを、拉致問題担当大臣だった古屋圭司衆院議員が明かしています。
拉致問題担当大臣の時に、津川さんに「ぜひイメージキャラクターとして出てくださいよ」と言ったら、「私は、かつて子どもが小さかった時に、誘拐されたことがあるんです。無事で帰ってきたからいいけれど、北朝鮮に何十年も(子どもを)拉致されたままの親の気持ちって、すごく分かるんですよ。ぜひ引き受けましょう!!」と何と、全くのボランティアで引き受けていただいた。全国にポスターが張ってあり、情報発信していただいています。(拉致問題を)なかなか、まだ解決できていないのが悔しいですけど。
引用元:日刊スポーツ

この誘拐事件について「誘拐犯はある意味、恩人と言ってもいいかもしれない」なんておっしゃっているんだけど、どういうことだろう?

それまでは経済的に妻の朝丘さんに依存していて、犯人から要求された身代金も朝丘さんが捻出したんですって。この頃の津川さんは主役にこだわって出演を受けていたことで、仕事がなかったそうなの。
「役者のこだわりよりもこの子のために何でもやって頑張るんだ」
「とにかく片っ端からいろんな役をやってみよう」と一念発起したおかげで、役者としての幅が広がる結果となったそうよ。
それから、自身が役者だったせいで危険にさらされた娘に対して責任を感じていて「彼女にとって世界一の父親になってやろう」と改めて決意して、子煩悩になり、娘の真由子さんに尽くしたんですって。
真由子さん自身も「究極のパパっ子です」とお話しされているわ。
色々なことに気づけたことは、犯人に感謝しているのかもしれないわね。
津川雅彦と朝丘雪路の馴れ初めは?
引用元:東スポWEB、毎日新聞
引用元:日刊スポーツ、NEWSポストセブン
上の画像1枚目、2枚目は1973年4月の婚約会見、3枚目、4枚目の画像は1973年5月の結婚式のお2人です。
朝丘雪路さんは、津川さんより5歳年上の姉さん女房でした。津川さんが17歳の頃には、朝丘さんは女優として活動され、父や兄との共演もあり、すでに2人は知り合っていたそうです。
朝丘さんも「津川さん本人よりもご家族とのほうが縁が深かったほどですが、お兄さまはもう結婚なさってましたしね。結婚はなんとなく自然な流れでしたね。」とお話しされています。
1987年に朝丘さんは一般男性と結婚し、男児を授かりましたが翌年には離婚しています。その後仕事で津川さんと一緒に巡業したことが縁で、津川さんから熱烈なアプローチを受け交際に発展し、1973年に再婚されました。
当時、朝丘雪路さんは『お嬢様女優』、津川雅彦さんは『二枚目俳優』として人気があり、美男美女カップルと注目された結婚でした。
津川さんが「あなたの声の一言一言は口から出る真珠のようだ」と言って朝丘さんを口説いた、朝丘さんの実家に3日通ってプロポーズしたなどの噂がありますが、プロポーズに関してご本人の意見は違うそうです。
僕は今でも、当時はほかの人と結婚していた雪会が、車の中でいきなり「結婚してくれ」って言ってきたと思ってるんですけれど、雪会は僕からプロポーズしたと言ってきかない。まあ、プロポーズって男女で記憶が食い違うことはよくあることみたいですね。
引用元:AERAdot.
この言葉にある通り、津川さんと朝丘さんは、朝丘さんが結婚していた頃から想いを寄せ合っていたようです。実際に正式に朝丘さんの離婚が成立したのは再婚1年前の1972年ことでした。
以降は言葉の通り、死が2人を分つまで芸能界のおしどり夫婦として連れ添われました。

2015年から2018年に認知症で朝丘さんが亡くなるまで、一時期別居されていた津川さんがまた一緒に暮らし始めたんだよね。

津川さんと朝丘さんにはお見送りやお迎えの『挨拶』や『お礼』のときに、キスをする習慣があって、それが復活したんですって。
「父が出かけるときは母が見送りに出て、『いってらっしゃい』チュッと。母は父と暮らすようになって、明るく初々しくなりました。2人にとっては新婚生活に戻ったような感じだったのでしょう。私たち家族は母が他界するまでの数年間で、たくさんの楽しい思い出を作ることができたのです」と娘の真由子さんがうれしそうにお話しされていたわ。
津川雅彦さんがデビューした1956年はこんな年だった!
引用元:Panasonic Group、スポニチ、日本建築材料協会
津川雅彦さんがデビューした1956年は、「家電ブーム、三種の神器誕生」、「石原裕次郎さん『太陽の季節』で俳優デビュー」、「通天閣再建」などの出来事があり、話題となりました。
この年の流行語は、『デイト』で、『ランデブー』に代わる恋人同士が遊びに行くことを意味する言葉として流行しました。
また、『シンタロー刈り』と呼び、スポーツ刈りのさらに前髪が長い髪型で、石原慎太郎さんのヘアスタイルをまねる若者が多かったそうです。
津川雅彦のプロフィール・受賞歴
引用元:毎日新聞
プロフィール
- 名前:津川雅彦(つがわまさひこ)
- 本名: 加藤雅彦
- 別名義:マキノ雅彦
- 生年月日:1940年1月2日
- 年齢:78歳(2018年8月4日没)
- 出身地:京都府
- 血液型:O型
- 趣味:映画鑑賞・競馬・乗馬
- 特技:日舞
- 所属事務所:グランパパプロダクション
受賞
ブルーリボン賞
- 第24回(1982年)最優秀助演男優賞 『マノン』
日本アカデミー賞
- 第9回(1986年) 優秀助演男優賞 『ひとひらの雪』
- 第11回(1988年)最優秀助演男優賞 『マルサの女』『夜汽車』
- 第16回(1993年)優秀主演男優賞 『濹東綺譚』
- 第18回(1995年)優秀助演男優賞 『集団左遷』
- 第22回(1999年)優秀主演男優賞 『プライド・運命の瞬間』
毎日映画コンクール
- 第42回(1987年) 助演男優賞『マルサの女』『別れぬ理由』
キネマ旬報賞
- (1987年) 助演男優賞『マルサの女』『別れぬ理由』
報知映画賞
- 第12回(1987年) 助演男優賞 『マルサの女』
- 第39回(2014年) 助演男優賞 『0.5ミリ』
高崎映画祭
- 第2回(1988年) 主演男優賞 『マルサの女』『別れぬ理由』
日刊スポーツ映画大賞
- 第7回(1994年)助演男優賞 『集団左遷』『忠臣蔵外伝 四谷怪談』
日本映画批評家大賞
- 第13回(2004年) 主演男優賞 『いつかA列車に乗って』
- 第16回(2007年) 批評家特別監督賞 『寝ずの番』 - 監督マキノ雅彦として受賞
門真国際映画祭
- 第1回(2018年) 最優秀主演男優賞 『サイレン』
ギャラクシー賞
- 第22回(1985年)ギャラクシー賞 特別賞 『女の一生』『生きていく私』
NHK放送文化賞
- 第67回(2016年)
ほか多数

津川雅彦さんは徳川家の将軍役を演じることが特に多かったんだよね。

徳川家康を5作品で演じていることを筆頭に、徳川家綱・徳川綱吉・徳川家斉・徳川慶喜を全13作品で演じられているわ。
「私はこれまで綱吉をはじめ徳川将軍家の役を何回も演じてきましたが、やはり家康役が一番おもしろかった。」
とおっしゃっているように、津川さんにとっても徳川家の将軍を演じることは特別だったんじゃないかしら。